タグ:長崎県

イメージ 1
   
イメージ 2

 






        寛永十五(1638)年戌寅 久盛公 
     御年四十五歳
一、一揆ノ大しやう四郎首、越中殿御手之鉄砲之者、
 鉄砲ニ而打、則首とり申候由承侯御事
一、諸手ノ手おい討死ハ、極廿日・正元日ほと可有御座かと
 の申事ニ御座候、扨もゝゝおひたゝ敷御事ニ御座候、松井
 外記も廿七日ニ本丸ニて討死仕候、御家中之御事かき
 と申事ニ御座候事
※写真左 天草四郎像
写真右 右・中川クルスの描かれた蓋付お椀 
左・底に十字の刻まれた高台茶碗  島原城資料館展示  
広報たけた ミステリアス!竹田キリシタンⅡ
   お椀が何故ここにあるのでしょうか。
岡藩との関係を暗示させます。
※一揆ノ大しやう・・。 一揆の大将(天草)四郎の首
※越中殿御手之鉄砲・・。細川越中守忠興殿家来の鉄砲・・。
※松井外記  肥後細川家家臣の大将の一人
 

イメージ 1
 寛永十五(1638)年戌寅 久盛公 御年四十五歳

一、一揆共本丸へとり入申候を、すくに本丸へも惣のりニ仕候へ共、

中々きひしくセり出し、鉄砲 石を打申侯、

七ツさかりまてセりあい申、日ノ入時分ニ本丸之内 出丸のりとり、

火をかけ申候ヘハ、もはやくらミ申候間、

御上使様 御大名衆御壱人も御帰被成(本書ノ如し)

二ノ丸ニ御陣 御とり被成、

明廿八日卯ノ刻より つめの丸へ 又々のり候へ共、

二時斗セりあい、五ツすき時分ニ四郎こもり申候つめの丸へ火をかけ、

ひる時分ニ落城仕、諸手かちどき上ケ、

御人数御引被成候御事

※七ツさかり 午後4時過ぎ

 卯ノ刻   午前6時ころ

 五ツすき  午前9時過ぎ

 

イメージ 1
 寛永十五(1638)年戌寅 久盛公 御年四十五歳

一、去ル(2月)廿六日之夜、出丸あけのき申候、

廿七日之朝 伊豆様・左門様へ鍋島殿より御注進被成侯処ニ、

伊豆様・左門様其外 御上使衆様、不相残鍋島殿つき山へ御出候て、

 御見及候て、出丸へ仕寄御付候へと被仰付、

各様皆々御帰被成候、

鍋島殿いかゝ被思召侯哉、御人数御よせ候て、

 ひる時分ニ出丸より二ノ丸へ火矢御いさせ侯へハ、

やかて小屋ニいつけ申候、よき風ふき候て、

其より次第ニふきつけやけ申侯、其きをいに二ノ丸へ御のせ被成侯、

其より俄に惣のり被成候処ニ、

二、三ノ丸其まゝ御のりとり被成候御事

※原城籠城組が出丸を空けて退いた。

その後に、佐賀鍋島藩が進出、二の丸、三の丸を乗っ取る。

 

イメージ 1
 寛永十五(1638)年戌寅 久盛公 御年四十五歳

一、(2月)二十七日、原城又々総攻アリ、

※攻撃軍の陣容 その2 (ウィキペディア)

 九州の大名

筑前国

福岡藩 - 総大将 黒田忠之、軍勢 18000

筑後国

久留米藩 - 総大将 有馬豊氏、軍勢 8300

柳河藩 - 総大将 立花宗茂・

大将立花忠茂(宗茂養嗣子)、軍勢 5500

肥前国

島原藩 - 総大将 松倉勝家、軍勢 2500

唐津藩 - 総大将 寺沢堅高、軍勢 7570

佐賀藩 - 総大将 鍋島勝茂、軍勢 35000

肥後国

熊本藩 - 総大将 細川忠利、軍勢 23500

日向国

延岡藩 - 総大将 有馬直純、軍勢 3300

豊前国

小倉藩 - 総大将 小笠原忠真、軍勢 6000

中津藩 - 総大将 小笠原長次、軍勢 2500

豊後国

豊後高田藩 - 総大将 松平重直、軍勢 1500

薩摩国

薩摩藩 - 総大将 山田有栄(島津家家老)、軍勢 1000

その他– 800

※豊後からは、高田藩松平氏のみが出動しています。

 正保2年(1645年)に松平氏が杵築藩に移封となったため

寛文9年(1669年)に豊後高田は島原領の飛び地となりました。

※原城攻撃軍に九州のほとんどの藩、九州外から福山藩が加わっているが

 豊後の各藩、佐伯、臼杵、府内、森、日出、杵築、岡藩は

 名前があがっていない。

 藩として、動員されなかった理由は何でしょう。

 

イメージ 1
 寛永十五(1638)年戌寅 久盛公 御年四十五歳

一、(2月)二十七日、原城又々総攻アリ、

家原又左衛門城中ニ乗入り相働ク、

池田亀右衛門ハ早ク二ノ丸ニ乗込ミ、

手強ク相働キ敵ヲ討取ル、

与力ノ者共モ手柄致ス、直ニ本丸ニ乗込ミ、

其所ニテ 又 敵ヲ討取ル、

翌二十八日、原城落去ス、

亀右衛門能ク働キ、与力ノ者モ手柄アリ

※総攻撃は228日に決定したが、27日、鍋島勝茂が抜け駆けて

 攻撃を開始。

※攻撃軍の陣容 その1 (ウィキペディア)

 幕府軍 

1次 上使 - 板倉重昌、軍勢 800

副使(目付)- 石谷貞清

2次 上使 - 松平信綱、軍勢 1500

副使 - 戸田氏鉄、軍勢 2500

九州以外からの大名

備後国

備後福山藩 - 総大将 水野勝成・大将 水野勝俊(勝成嫡男)・

大将水野勝貞(勝俊嫡男)、軍勢 5600

(九州以外からの唯一の参陣)

余談 水野日向守勝成 ブログ11月22日参照

  肥後加藤家の改易の際、幕府の熊本城受け取り1番勢として

  出動しています。

加藤清正の正室、徳川家康養女の清浄院は、勝成の妹。

「旗本奴」として知られた旗本の水野成之(十郎左衛門)は

勝成の孫。

↑このページのトップヘ