




一、一揆共本丸へとり入申候を、すくに本丸へも惣のりニ仕候へ共、
中々きひしくセり出し、鉄砲 石を打申侯、
七ツさかりまてセりあい申、日ノ入時分ニ本丸之内 出丸のりとり、
火をかけ申候ヘハ、もはやくらミ申候間、
御上使様 御大名衆御壱人も御帰被成(本書ノ如し)
二ノ丸ニ御陣 御とり被成、
明廿八日卯ノ刻より つめの丸へ 又々のり候へ共、
二時斗セりあい、五ツすき時分ニ四郎こもり申候つめの丸へ火をかけ、
ひる時分ニ落城仕、諸手かちどき上ケ、
御人数御引被成候御事
※七ツさかり 午後4時過ぎ
卯ノ刻 午前6時ころ
五ツすき 午前9時過ぎ

一、去ル(2月)廿六日之夜、出丸あけのき申候、
廿七日之朝 伊豆様・左門様へ鍋島殿より御注進被成侯処ニ、
伊豆様・左門様其外 御上使衆様、不相残鍋島殿つき山へ御出候て、
御見及候て、出丸へ仕寄御付候へと被仰付、
各様皆々御帰被成候、
鍋島殿いかゝ被思召侯哉、御人数御よせ候て、
ひる時分ニ出丸より二ノ丸へ火矢御いさせ侯へハ、
やかて小屋ニいつけ申候、よき風ふき候て、
其より次第ニふきつけやけ申侯、其きをいに二ノ丸へ御のせ被成侯、
其より俄に惣のり被成候処ニ、
二、三ノ丸其まゝ御のりとり被成候御事
※原城籠城組が出丸を空けて退いた。
その後に、佐賀鍋島藩が進出、二の丸、三の丸を乗っ取る。

一、(2月)二十七日、原城又々総攻アリ、
※攻撃軍の陣容 その2 (ウィキペディア)
九州の大名
筑前国
福岡藩 - 総大将 黒田忠之、軍勢 1万8000
筑後国
久留米藩 - 総大将 有馬豊氏、軍勢 8300
柳河藩 - 総大将 立花宗茂・
大将立花忠茂(宗茂養嗣子)、軍勢 5500
肥前国
島原藩 - 総大将 松倉勝家、軍勢 2500
唐津藩 - 総大将 寺沢堅高、軍勢 7570
佐賀藩 - 総大将 鍋島勝茂、軍勢 3万5000
肥後国
熊本藩 - 総大将 細川忠利、軍勢 2万3500
日向国
延岡藩 - 総大将 有馬直純、軍勢 3300
豊前国
小倉藩 - 総大将 小笠原忠真、軍勢 6000
中津藩 - 総大将 小笠原長次、軍勢 2500
豊後国
豊後高田藩 - 総大将 松平重直、軍勢 1500
薩摩国
薩摩藩 - 総大将 山田有栄(島津家家老)、軍勢 1000
その他– 800
※豊後からは、高田藩松平氏のみが出動しています。
正保2年(1645年)に松平氏が杵築藩に移封となったため
寛文9年(1669年)に豊後高田は島原領の飛び地となりました。
※原城攻撃軍に九州のほとんどの藩、九州外から福山藩が加わっているが
豊後の各藩、佐伯、臼杵、府内、森、日出、杵築、岡藩は
名前があがっていない。
藩として、動員されなかった理由は何でしょう。

一、(2月)二十七日、原城又々総攻アリ、
家原又左衛門城中ニ乗入り相働ク、
池田亀右衛門ハ早ク二ノ丸ニ乗込ミ、
手強ク相働キ敵ヲ討取ル、
与力ノ者共モ手柄致ス、直ニ本丸ニ乗込ミ、
其所ニテ 又 敵ヲ討取ル、
翌二十八日、原城落去ス、
亀右衛門能ク働キ、与力ノ者モ手柄アリ
※総攻撃は2月28日に決定したが、27日、鍋島勝茂が抜け駆けて
攻撃を開始。
※攻撃軍の陣容 その1 (ウィキペディア)
幕府軍
第1次 上使 - 板倉重昌、軍勢 800
副使(目付)- 石谷貞清
第2次 上使 - 松平信綱、軍勢 1500
副使 - 戸田氏鉄、軍勢 2500
九州以外からの大名
備後国
備後福山藩 - 総大将 水野勝成・大将 水野勝俊(勝成嫡男)・
大将水野勝貞(勝俊嫡男)、軍勢 5600
(九州以外からの唯一の参陣)
余談 水野日向守勝成 ブログ11月22日参照
肥後加藤家の改易の際、幕府の熊本城受け取り1番勢として
出動しています。
加藤清正の正室、徳川家康養女の清浄院は、勝成の妹。
「旗本奴」として知られた旗本の水野成之(十郎左衛門)は
勝成の孫。