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岡藩中川家の嫡子 釤之助・久遠公に

天明四年(1784)甲辰 久貞公 御年六十一歳

一、二十九日、釤之助様 御嫡孫承祖御願ノ通仰セ蒙ラル、

尤御病気ニ付、御名代水野日向守様御登城、

釤之助様御名代モ御兼合

一、  同日、釤之助様、香橘様御一同、御中屋敷ヨリ

御上屋敷御物見へ御移徏

一、  同日、大炊様、松平与五郎様へ御引越、

御実名忠明卜御更

※釤之助様  中川久遠公 安永3年(1774)江戸で誕生

       久徳公の2男 久徳公が嫡子退身したため、

久貞公の跡を継ぐ嫡子となる。

※嫡孫紹祖(ちゃくそんしょうそ)

       孫が祖父から直接家督を継ぐこと

※香橘様   中川久持公 安永5年(1776)江戸で誕生

       久徳公の4男

       兄・久遠公が天明6年18歳で死去したため、

       8代久貞公の跡を継ぐ嫡子になる。

※水野日向守 水野日向守勝剛(かつかた)久貞公の3男・鷹之丞

       下総結城藩の第6代藩主になっています。

※大炊様   旗本・松平与五郎忠常の聟養子になり松平忠明

       後の松平信濃守忠明。駿府城代で亡くなってます。

       蝦夷地開拓に間宮林蔵とともに名前が残っています。


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           岡城 本丸

若殿・久徳公 父・久貞公より謹慎を命ぜられる

天明三年(1783)癸卯 久貞公 御年六十歳

一、五月二日、端午御献上例ノ如シ

一、二十三日、思召コレ有、若殿様へ御慎仰セ進セラル

一、 日 闕 若殿様御部屋へ御女子御誕生、

御名興卜称シ奉ル、

御母ハ御侍女姓氏詳ナラス

一、六月五日、御本丸東二階御櫓御柱立

一、  九日、惇信院様二十三回御忌御法事中、

御献上氷砂糖一壷

一、 十三日、右法事ニ付、御香奠御献上白銀弐枚

一、二十一日、有徳院様三十三回御忌御法事ニ付、

御香奠御献上白銀弐枚

※(久貞公は)若殿様へ御慎み(謹慎)をさせた  

※朝地町史に(久貞公は)老中就任運動、正室・側室の不和、

嫡男(久徳公)との反目などを生じた。

久徳公は父との反目から虚無的になり・・。とあります。

※惇信院様  9代将軍徳川家重

※有徳院様  8代将軍徳川吉宗


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久貞公の3男・鷹之允久徴公 水野家の養子になる

天明三年(1783)癸卯 久貞公 御年六十歳

一、四月十二日、鷹之丞久徴様、

水野日向守勝起様御急養子御相談ニ及ハルヽノ段、

御老中マテ御達シ、

十三日、日向守様御逝去、

鷹之丞様へ御忌服受サセラルヘキ旨仰セ蒙ラル

一、 十四日、鷹之丞様永野家へ御引越、御実名勝剛卜御更

一、 十六日、種姫様御結納済セラル、御祝儀御献上、

       公方様へ二種一荷

       大納言様へ右同

       種姫君様へ一種金五百匹

       御部屋様へ一種金三百匹

※鷹之丞様  宝暦8年(1758)4月1日、江戸で誕生

下総国結城藩の第5代藩主水野日向守勝起(かつおき)が

天明3年(1783年)412日、39才で急死したため、

緊急に養子縁組をしたようです。末期養子ですね。

下総結城藩の第6代藩主として水野勝剛(みずのかつかた)を

名のります。家格、禄高ともに岡藩中川家を上回ります。

余談として 水野勝愛(みずのかつざね)のこと

父・鷹野丞久徴(ひさあき)公が水野家の養子になる前、

安永9年(1780)久徴公の長男として江戸の岡藩邸で誕生。

父が水野家の養子になり、父に連れられ結城藩に移り、

  後、父の跡を継ぎ下総結城藩の第7代藩主となりました。


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      滋賀県 賤ケ岳・大岩山 清秀公墓地

若殿・久徳公 賤ケ岳 太祖清秀公の墓 御参詣

安永十年(1781)辛丑  久貞公 御年五十八歳

一、閏五月四日、若殿様江戸御発駕 

御湿瘡気ニ付、是迄御延引 

木曽路御通行、志津箇山獄御参詣、

二十一日、大坂御着、

二十二日、同所御乗船

一、二十二日、一橋治済公 御息豊千代君、

去ル十八日、将軍御養君仰セ出サル、

御祝儀御献上、

公方様へ御太刀馬代銀壱枚、

       若君様へ右同

       御部屋様へ干鯛一箱

一、六月三日、暑中御献上例ノ如シ

一、  七日、若殿様三佐御着、

十一日、御帰城

※湿瘡(しっそう)疥癬(かいせん)虫が寄生する伝染病

※木曽路   中山道(なかせんどう)が木曽を通るので木曽路と

       よばれています。山中を69次でむすんでいます。

※志津箇山獄御参詣 賤ケ岳(中川家太祖清秀公の墓)御参詣

  木曽路を通行する理由は3つ、1つは清秀公の墓参。

  2つ目は、東海道のような大雨による川止めが無いこと。

  3つ目は、朝鮮通信使などのような混雑が無いこと。

※一橋治済(はるなり) 御三卿の一つ一橋徳川家の第2代当主。

8代将軍・徳川吉宗の孫で、11代将軍・徳川家斉の実父に当たる。

※豊千代  一橋治斉の長男。11代将軍・徳川家斉


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       中川清秀公墓 大岩山(滋賀県長浜市余呉町)

久貞公 賤ケ岳の清秀公墓参詣  御朱印奉持帰国

宝暦十二年(1762)壬午 久貞公 御年三十九歳

一、閏四月朔日、江戸御発駕、木曽路御通行、

尤此節 御朱印御持セ、

    十四日、江州木ノ本御着、志津箇山獄御墓所御参詣、

此節ノ御詩作  明和四年碑ニ刻シ御建

        宝暦十二年閏四月 将帰藩取路岐岨

十四日 謁 志津山獄

     先君荘山獄公之墓 有感往事国恭賦

五言一律刻石以述懐云

     昔日屯軍地慨然憶指揮壘虚山鳥過碑湿岫

     雲帰登陟攀空翠躊躇対落暉功名著竹帛千

     載欽英威

      豊後州岡城主中川修理大夫源久貞頓首拝

                男  久徳謹書

一、 十四日、来未秋冬ノ内朝鮮信便来朝ニ付、

豆州三島ニテ御馳走役 先達テ仰セ蒙ラルノ処、

備後国柄ニテ往来共ニ御馳走仰セ蒙ラル段、

去ル六日ノ御奉書 木ノ本へ達ス

※木曽路 中山道(なかせんどう)木曽を通るので「木曽路」とも呼ばれた。

※明和四年(1767)明和4年108日 賤ケ岳墓所に建立しています。

※荘嶽公之墓 中川家の太祖・中川清秀公の墓

       墓所は賤ケ岳に連なる大岩山にあります。

※木ノ本 賤ケ岳の麓にある中山道の宿場町。

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