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参勤交代 草津で急に冷え込んだか? 東海道へ

文政二年(1819年)己卯  久教公 御年二十歳

一、(8月)二十八日、岡城御発駕

一、九月 朔日、三佐御乗船

一、   二日、重陽御献上例ノ如シ

一、 二十一日、大坂御着、

二十三日、伏見御着、兼テ木曽路御通行御伺置ノ処、

草津駅御止宿ノ節ヨリ寒冷弥増、

俄ニ御願下ニ相成、美濃路東海道御旅行

一、十月 十日、江戸御着

一、  十五日、御参勤御礼、御不例ニ付、

御使者ヲ以テ御献上例ノ如シ

一、  十九日、右御献上御簾中様へ白銀三枚 御忌中ニ付、

是迄御延引、

※参勤交代   旅行の日程、コース、宿等前もって、幕府に届け、

      宿場ごとの手配をしているので、急な変更は関係者に

      人的、経済的な被害を与えたと思われます。

※草津駅  滋賀県南西部に位置する現在の草津市。

江戸時代には東海道と中山道(木曽路)が接する宿場町(草津宿)

※草津の本陣は現在、史跡に指定され大切に守られています。

史跡草津宿本陣 〒525-0034 滋賀県草津市草津一丁目28

Facebook  @Kusatsujuku   電話 077-561-6636 

※美濃路   草津から琵琶湖沿いに北上して、中山道(木曽路)の

 追分(垂井の宿)から美濃路に入り大垣、清洲、名古屋をぬけ

東海道追分(宮宿)に入ったと思われます。

 

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久貴公 賤ケ岳 大岩山清秀公の御墓参り

文化五年(1808)戊辰  久貴公 御年二十二歳

一、五月 二日、端午御献上例ノ如シ

一、  十一日、江戸御発駕、美濃路御通行、

二十三日、志津箇嶽御墓所御参詣、

二十六日、伏見御着、

二十八日、大坂御着、御勤

一、六月 四日、室ヨリ御乗船、

八日、三佐御着、

十日、御帰城

一、 二十八日、暑中御献上例ノ如シ

※美濃路御通行 東海道熱田(宮)宿から美濃路を抜け、

中山道垂井宿を経て、北国街道木之本宿に至ったと思われます。

※志津箇嶽(賤ケ岳) 木之本宿の西、賤ヶ岳に連なる大岩山で、

         清秀公は佐久間盛政軍に襲われ、そこで戦死。

         墓も大岩山の山頂にあります。

※横山甚助による岡藩の財政改革が進む

横山甚助 20人扶持先手物頭格 文化3年には御用人格に栄進、

42月には御勝手方御用掛、5月には奉行職格(480石)。

藩政の改革を担当することになった。

 「御勝手取締御仕法」① 役人の「御人減らし」(リストラ)

             代官所を「城下代官所支配」に統合

② 人別増し」(人口増加)政策

③ 荒地再開発・新田開発・水利事業など

「地下成り立ち」(地元が成り立つ)政策を進める。(竹田市誌)

 

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久持公 志津箇嶽(賤ケ岳)(清秀公)御墓所参詣

寛政八年(1796)丙辰  久持公 御年二十一歳

一、(4月)十八日、御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラル、御拝領例ノ如シ

一、二十一日、江戸御発駕、木曽路御通行、

御仮養子松平甲斐守保光様

御五男柳沢三千蔵信任様

一、五月二日、端午御献上例ノ如シ

一、  四日、志津箇嶽御墓所御参詣、

七日、伏見御着、

八日、大坂御着、

十三日、室ヨリ御乗船、

二十二日、三佐御着、

二十五日、御帰城

※松平甲斐守保光(やすみつ)柳沢保光、大和郡山藩3代藩主

※仮養子  久持公に家督相続をする子どもがいないので、

参勤交代など旅行中、久持公の不慮の死に備えて

幕府に届け出て許可を得た当面の養子。

※柳沢三千蔵信任  柳沢保光の5男、のちに久持公が急に

亡くなった為に、末期養子に迎えられ、

10代岡藩主になった中川久貴公。

※中川家太祖の清秀公の墓を参詣するのは、久持公には初めてのこと

と思われます。墓は賤ケ岳の北東に連なる大岩山にあります。

 

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    久貞公建立石碑           清秀公の墓

久貞公 太祖清秀公を偲ぶ石碑を墓の側に建立

明和四年(1767)丁亥 久貞公 御年四十四歳

一、七月十六日、宮沢善治町御奉行所ニテ御調

一、八月朔日、御献上例ノ如シ、御病気ニ付、御使者安野加澄政方

一、 十二日、毛利勘左衛門・市浦半平並宮沢善治、町御奉行所ニテ

       水道普請ノ儀、口書印形相済 

今日諸家十一方御家来召呼ハレ、同様ナリ

一、九月二日、重陽御献上例ノ如シ

一、十月八日、先年御詩作ノ石碑、志津箇嶽御墓所へ御建立

一、十一月二十一日、寒中御献上例ノ如シ

一、十二月十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※久貞公、4月に病気全快が、また、御病気に付・・。と

     記述されています。

※先年御詩作・・。宝暦12年4月、参勤交代で木曽路を通り帰国

     する際に詠んだ詩を刻み、賤ケ岳の清秀公の墓の側に

     建立しています。場所は賤ケ岳に連なる大岩山になります。

     詳しくは1113日のブログを見て下さい。

※水道普請に関する疑惑事件が拡大、11の藩、家に広がる事件に

     なります。工事業者に何らかの便宜をはかった収賄容疑

     ではないでしょうか。


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天和二年(1682年)壬戌 久恒公 御年四十二歳

一、正月、御中陰

一、四日、若御奥様御部屋ニ主膳様御誕生

一、二月七日、伝奏公家衆花山院前大納言定誠卿・

千種前大納言有能卿

御馳走役仰セ蒙ラル

一、三月四日、公家衆江戸御着、前日ヨリ伝奏屋敷へ御詰、

十四日、公家衆御発駕、御馳走所御引払

一、四月十九日、御在所へノ御暇仰セ蒙ラル、御拝領例ノ如シ

一、二十日、賤箇嶽御石碑改建 御碑文清秀公御譜ニ載ス

※伝奏公家 武家伝奏(ぶけてんそう)幕府の要望を朝廷に取り次ぐ役目。

※伝奏の任命 幕府前期  幕府が人選 朝廷が追認

         中期  朝廷が人選 幕府が許可

         後期  朝廷が人選 幕府は事後承認

※清秀公が大岩山で戦死した時、地元の人たちが遺体を葬った

ことで、秀吉から誉められ、清秀講をつくって墓を守るように

命じられました。その講が現在も引き継がれ、墓の管理運営、

御祭りも行っています。

 

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