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久忠公 内膳正 に任ぜられる

正徳元年(1711)辛卯 久忠公 御年十四歳

一、(6月)日詳ナラス 今度朝鮮人来朝御固メ仰セ蒙ラルヘキノ処、

御叙爵済セラレスシテハ如何ノ旨御内意

一、四日、従五位下ニ叙シ、内膳正ニ任セラル

一、同日、幸姫様藤堂和泉守高敏様へ御婚礼

一、十一日、御官位御礼仰セ上ラル、御献上御太刀金馬代

一、十二日、暑中御献上例ノ如シ

一、七月朔日、幸姫様御婚礼ノ御礼仰セ上ラル、

御献上御時服四

一、四日、御任官後初テ上野御参詣、

御宮へ御太刀馬代銀壱枚、

三御霊屋へ白銀壱枚ツヽ御供

一、七日、御老中阿部豊後守正喬様御宅ニ於テ口宣御頂戴、

御煩ニ付、御名代仙石信濃守政房様

※幸姫  元禄6年(1693)江戸で誕生 久通公31歳

※藤堂高敏(とうどうたかとし)伊勢国津藩の第5代藩主

※口宣御頂戴  口宣(くぜん) 

従五位下ニ叙シ、内膳正に任じる天皇からの正式な辞令

※内膳正になった岡藩主 2代久盛公、6代久忠公、13代久成公

   京都伏見、岡藩の屋敷跡辺りに内膳町の町名が残っています。


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慶安三年庚寅 御年五十七歳

一、正月十六日、岡城御発駕

一、晦日、京都御着、翌日御発駕アルヘキ処、御不例ニ付、

伏見へ御逗留ニテ、京都ニテ御療養ノ儀江戸表へ仰セ進セラレ、

御親類様方ヨリ御願差出サル

一、二月日詳ナラス 去ル八日江戸ニテ御渡ノ御奉書伏見ニ御到来、

御療養御願ノ通仰セ蒙ラル

    其方儀相煩、伏見被有之候、彼地者医師不自由候間、

於京都養生有度之由、於当地一類中望之通達

  上聞候処、京都江相越、可致療養之旨被

  仰出侯間、可被得其意候、恐々謹言

       二月八日     阿部対馬守重次花押

                阿部豊後守忠秋花押

                松平伊豆守信綱花押

       中川内膳正殿

一、日詳ナラス 御上京ニテ御療養

※御不例ニ付  体調がすぐれない 病気

※京都ニテ御療養・・。御親類様方ヨリ御願差出・・。

 久盛公の正室は家康の姪。松平隠岐守定勝の娘。

 久清公の正室は石川主殿頭忠総の娘。

 徳川家に繋がりを持つ有利さが生かされていますね。

 

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天正十年(1582年)壬午 清秀公 御年四十一歳

一、日詳ナラス 山崎御勝利ニ付、

御当家ノ老職並ニ高山右近長房ノ老職、

一同秀吉召出サレ、重々御賞誉アリ

一、日詳ナラス 山崎戦功ノ者共、御当家ニ於テ其功ニ従ヒ、

二十五石 又十五石ツヽ、其余末々二至り、十四石ツヽ

御賞誉アリ

一、(6月)十四日、(明智)惟任カ居城 丹波亀山ヲ、

御当家並ニ高山右近長房両旗ヲ以テ攻メラルヘシトテ御出馬、

此時モ領分ノ遠近ヲ以テ一、二ヲ定ム、高山先手ニテ大手ニ向ヒ、

御当家ハ搦手ニ向ハセラル、

御人数ノ内宍戸四郎兵衛、一番ニ城ニ付テ塀ヲ乗ル、

中川淵之助重定モ続ヒテ乗ル、城兵宍戸ヲ突落ス、

淵之助大身ノ槍ヲ以テ其敵ヲ突伏セ、其余ノ城兵ヲ追払ヒ、

城中ニ乗入ル、相続ヒテ御人数搦手ヨリ攻入り、終ニ落城ス

※御年譜附録に

 山崎の陣の時、中川家の与力として参加した者は、

皆、前将軍足利義昭公の御家人、又は足利家の牢人(浪人)で

戦功のあった者は家中の者と同じ御褒美を下され、

中川家の家来になった。と、いうことです。

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天正十年(1582年)壬午 清秀公 御年四十一歳

此時 神戸信孝殿来り給ヒ、馬ヨリ下り、

(清秀)公ノ御手ヲ取り、今度ノ合戦ニ粉骨ヲ尽シ、

光秀カ大軍ヲ即刻ニ討亡シ、亡父信長ノ恨ミヲ一時ニ散スル事

偏(ひとえ)ニ清秀比類ナキ忠戦ニ依ルト 式代アツテ、

高山・池田ヘモ今日ノ働キ苦労ナリト仰セラル、

羽柴ハ遥ニ引下リテ来り、下乗モナク、

瀬兵々々骨折々々卜申サル、

公大音ニテ

筑前守最早天下ヲ呑ムノ気アリ、推参ナリト仰セケレトモ、

 羽柴 兎角ノ返答ナク行過ラル、

光秀ハ其夜出奔二付、御人数御引上ケ

※神戸信孝殿

 信長の長男信忠(本能寺の変で死亡)、

次男信雄(のぶかつ)通称三介 三男の説もあります。

三男信孝 伊勢神戸家の養子になる。通称三七。

※式代 式体(しきたい)挨拶

※中川清秀公は瀬兵衛、弟は淵兵衛  (瀬と淵の対比)

 瀬兵々々骨折々々卜申サル、(清秀)公大音ニテ

 「サルめ、はや天下を取った気でおるわ!」と秀吉に聞こえるように

言ったけれど、秀吉はそのまま行き過ぎたと、伝わっています。

御年譜の方は大分遠慮した書き方のように思えます。

※山崎の合戦で敗走した光秀は勝竜寺城に帰城したが、

  秀吉軍の追撃を受け、

勝竜寺城から自分の本拠地坂本城へ落ち延びる途中で落命。

翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城しています。

 「瀬兵々々骨折々々・・」はその時のことではないでしょうか。

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天正十年(1582年)壬午 清秀公 御年四十一歳

 (清秀公は)諸将卜共ニ(明智勢の)逃ルヲ追テ

勝竜寺ニ会合シ給フ、

即刻 諸手ヨリ羽柴ノ旗本へ、使番ヲ以テ 其旨ヲ相達ス、

御当家御使香 山岸監物重本、一番ニ羽柴ノ旗本ニ乗付ケテ、

御口上ヲ申上ル、

秀吉(山岸を)召出サレ、軍ノ次第尋ラレテ、

度々ノ武功(清秀公は)希代ノ勇士卜御挨拶アッテ、

使者ニ御褒美トシテ純子ノ袷羽織・白布二端ヲ給ル、

(清秀公はじめ諸将は)既ニシテ勝竜寺ノ城ニ押詰ル、

 公ハ御深慮ニテ三千余ノ御人数ヲ六手ニ分ツテ、

備ヲ固メサセラル、

※勝竜寺ノ城 光秀は合戦に敗れ一時この城に入ったようです。

 現在の大山崎町の北、長岡京市にあります。

 長岡京市の北は京都市になります。

本能寺の変の後、明智光秀の城になっていたので、

この城に入ったのでしょうが、秀吉軍に攻められ、

自分の城坂本城に向かいます。

 

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