カテゴリ: 日記

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         愛宕山 願成院跡

御年譜に明らかに誤りと思われる記載が

文政十年(1827年)丁亥   久教公 御年二十八歳

一、五月 三日、端午御献上例ノ如シ

一、六月十四日、去ル十日、徳川民部卿斉位様御逝去ニ付、

御朦中御献上  

公方様へ氷砂糖一壷

        内府様へ右同  御台様へ右同

一、閏六月二日、暑中御献上例ノ如シ

一、八月 朔日、御献上例ノ如シ

※徳川民部卿斉位(なりくら)御三卿・一橋家の5代当主

  この年文政10614日に死去したとの記載ですが、

 〇文政10年(1827年)625日元服、伯父将軍家斉から斉位の

名前をもらい、従三位左近衛権中将兼民部卿になる。

 〇文政131830年)614、養父・斉礼が没したため、

斉位が719日に一橋家当主に就任。

 〇天保8年(1837年)57日、斉位20歳で夭折。

このことから見て、御年譜の614日の項目は十数年ほど後に

記録された誤りと思われます。

※御年譜の記載については、何度か書き直されたり、都合の悪い項目は

  削除されたように思えます。

  そう思える理由は、何ヶ所か、年単位で空白があったり、

  当然書かれれているはずの事項が抜けているからです。

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久教公の駕籠の簾 黒塗竹簾 が許される

文政十年(1827年)丁亥   久教公 御年二十八歳

一、正月 二日、年始御献上例ノ如シ、御使者里見三郎左衛門

        若君様へ右同 此節ヨリ始マル

一、二月二十九日、岡城御発駕

一、三月 二日、三佐御乗船、

十六日、室ヨリ御揚陸、山崎御通行、

二十一日、伏見御着、美濃路御通行

一、四月 七日、江戸御着

一、  十一日、是迄御駕ノ窓 簾葭御用ヒノ処、

以来黒塗竹簾ニ成サレ度旨御何済セラル

一、  十三日、公方様 太政大臣 御昇進ニ付、

御祝儀御献上、御太刀馬代銀一枚

        内府様へ右同

一、   同日、内府様御位階ニ付、御祝儀御献上

        公方様へ御太刀馬代銀一枚

        内府様へ右同

        御台様へ干鯛一箱

        御簾中様へ右同

一、 二十五日、御参勤御礼、御献上例ノ如シ

※若君様   後の13代将軍家定。12代将軍になる家慶の4男

※簾(すだれ)葭(あし)

※黒塗竹簾(くろぬりたけすだれ)

   大名の石高、官位、家柄によって家格が決まり、格式によって

   大名の生活様式全てにおいて制限がされていたようです。

   駕籠の制約もそのごく一部で、久教公が井伊家の出身ということ

   で黒塗竹簾が許されたものと思われます。


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        愛宕山 願成院跡

岡藩 幕府への御祝儀出費に苦しんだか?

文政九年(1826年)丙成  久教公 御年二十七歳

一、十一月朔日、若君様御髪置御祝儀御献上

        公方様へ干鯛一箱・御樽代金千匹

        内府様へ右同   若君様へ右同

        御台様へ干鯛一箱・御樽代金五百匹

        御簾中様へ右同

一、 二十八日、文姫君様、松平宮内大輔頼胤様へ御婚礼相済ニ付、

        御祝儀御献上、公方様へ鯣一箱・御樽代金三百匹、

御台様へ鯣一箱

一、十二月十一日、寒中御献上例ノ如シ

一、 二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※若君様  文政7年(1824年)生まれ、後の13代将軍家定。

12代将軍になる家慶の4男。

※御髪置  幼児が頭髪を剃ることをやめて伸ばしはじめるときの儀式。

髪立,櫛置などともいう。

七五三とよばれている子供のお祝いのうち、3歳の祝いを

髪置祝いとか、カミタテ祝いなどとよぶ。

※公方様  11代将軍家斉

※内府様  内大臣・家慶(いえよし)後の12代将軍

※御台様  11代将軍家斉の正室・近衛寔子(このえただこ)

※御簾中様 将軍家斉の側室、12代将軍になる家慶の生母・香琳院

※文姫君様 将軍家斉の17女。(1809年~ 1837年)

※松平宮内大輔頼胤(よりたね)讃岐国高松藩10代藩主

※鯣(するめ) ※三百匹(疋) 1両=400疋≒10万円

※御祝儀の合計4300匹≒100万円余 (献上品代は除く)


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          愛宕山 願成院跡

家老・中川平右衛門 久教公から名前の1字を頂く

文政九年(1826年)丙成  久教公 御年二十七歳

一、六月十三日、老職中川平右衛門、諦考院様御代以来

重キ御用向度々心労致シ、首尾能御用相弁、

五拾ケ年余ノ勤労 今以気丈ニ出精致スニ付、

格別ノ思召ヲ以テ御実名ノ一字拝領仰セ付ラレ、

教興卜更ム、且御居間ニ召出サレ御懇ノ御意ノ上、

御手自金子百両成下サル

一、  十八日、暑中御献上例ノ如シ

一、七月 三日、御在着御礼、御使者古田四郎五郎重言差上ラル、

御献上例ノ如シ

一、八月 朔日、御献上例ノ如シ、御使者里見三郎左衛門

一、九月 二日、重陽御献上例ノ如シ

一、 二十七日、文姫君様御引移ニ付、

御献上長御目録箱二通半・御文箱三通

※諦考院様   岡藩8代藩主久貞公

※首尾能御用相弁   首尾よく御用を相弁じ

※今以気丈ニ出精致ス 今もって気丈に出精致す

※老職中川平右衛門  平右衛門は田近家伝統の名前です。

明和5年(1768年)6月より、久貞公、久貴公、久教公と

3代の藩主の家老を勤めたことになります。年数だけ見ると

この時で59年になりますが、御年譜には50ヶ年余とあり

ますので何年か退いていたことがあったのかも知れません。

※文姫君様  将軍家斉の17女。(1809年~ 1837年)


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          愛宕山 願成院跡

久教公 弟・井伊勝之助を仮養子として帰国

文政九年(1826年)丙成  久教公 御年二十七歳

一、正月 二日、年始御礼、御献上・御拝領例ノ如シ

一、   三日、御献上例ノ如シ

一、四月十八日、御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラル、御拝領例ノ如シ

一、 二十一日、江戸御発駕、美濃路御通行、

御仮養子井伊勝之助様

一、 二十二日、老職隠居中川内匠長国病死

一、五月 二日、端午御献上例ノ如シ

一、   六日、伏見御着、

七日、大坂御着、

八日、御勤、

九日、御乗船、

    十九日、三佐御着、

二十四日、御帰城

※御仮養子   旅の途中で久教公に急死など異変が起きた時、中川家

の家督相続に支障がないように、仮の養子縁組を幕府の許可を得

て届け出ていたようです。

※井伊勝之助  久教公の弟。のち三河挙母(ころも)藩の第5代藩主

   内藤政優(まさひろ)。文化7年(1810年)誕生。

文化15年(1818年)9歳の時から仮養子として岡に来ています。

※老職隠居中川内匠長国  中川(田近)玄蕃長国  前名・戸伏弁吉

中川(田近)玄蕃長尭の養子、

中川(戸伏)助之進三達の2男  千石

※御勤 時の大坂城代水野忠邦へ挨拶に出向いたのでしょう。


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