文久二年(1862年)壬戌 久昭公 御年四十三歳
一、十月 朔日 御意コレアリ、御書附左ノ通 (その5)
一、民中撫育之儀者近年及下知置候通、
弥以其筋之者とも精を可入候、当年者寛々廻村役人共世話振、
成立之模様夫々実見可致与存候処、此度之仕合不及是非候、
且先達而大雨洪水、城下始所々潰落不容易儀、畢竟国之栄辱、
民之苦楽我等身上ニ関し候儀深致心痛候、
実ニ民者国之基ひ大切之事ニ候間、役人共弥増致一致差扖引立、
窮民飢餓流離無之様按撫専要之事ニ候、
右心事之大略此度不時参府ニ付、書附相示候、
要旨猶脱漏茂有之歟、家老共始諸士一統我等心中推察、
前文之件々真実ニ可相守候、将参府之上御用之品ニ寄、
覚悟之儀も有之候間、此段者国中一統可致安堵候也
文久二年壬成十月 久昭
一、同日、右御書附ノ御趣意ニ付、厚キ思召ヲ以テ、御家中始末々迄
御酒頂戴仰セ付ラル
※民を大切にすることは、これまでも言ってきたことである。
これからも努力してゆきたい。今年は多くの村を回り庄屋をはじめ
村役の働き、百姓の生活ぶりを見て領内の安定を計ってきた。
しかしながら、此度の外国船が来てからの騒動は領内の経済的負担
を増すことになるが、これは言っても仕方がない。
その上この前の大雨洪水、その被害は甚大である。
つまるところ、藩の繁栄や恥辱、民の苦楽は自分・久昭にとって大変
心を痛めているところである。 以下略
※文久2年(1862年)
4月16日、島津久光、薩摩藩兵士1000名余を率いて京都に入る。
4月23日、寺田屋事件。急進派薩摩藩士、久光の上意討ちになる。
※4月24日、岡藩士小河弥右衛門(一敏)、同士17名伏見に到着。
急進派薩摩藩士と行動を共にするため、大坂薩摩屋敷を出て、
伏見に着いた時、事件を聞いたそうです。

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