岡城址19年秋23
久昭公 勤皇討幕をたしなめる 藩内に意見書

文久二年(1862年)壬戌  久昭公 御年四十三歳

一、十月 朔日 御意コレアリ、御書附左ノ通 (その2)

 一、近年世上不穏中、其時勢憤慨之士勤王を名として、

妄動之族も有之趣、勤王者 皇国之生霊誰ニても同様、

無勿体も奉対 天朝、不臣之心底断然可有儀ニ無之候得共、

銘々身之分限ニ応し、勤王之処分有之事ニ候、

猶 幕府二百五十年之御徳沢、毛頭忘却仕間敷、

且 公武益合体之御時節、聊心得違有之間敷、

惣而進退我等下知を可相待候、

留守中之儀者月番之家老差図ニ可任候、

向後方一心得違、 忘(ママ妄か?)動之族も候ハヽ、

   吃度可申付候、兼而覚悟可有之候

※近頃、世の中が騒動しく、その時勢を憤慨して、勤皇の名をかたり

 軽挙妄動する者どもがあるようだが、勤皇は皇国・日本に生まれた

 者はもったいなくも朝廷に対して誰も尊敬しない者はいない。

 それぞれ、身分に応じて勤皇の働きをすべきである。

 なお、幕府250年間の恩も忘れられない。

 そしてまた、公武合体のこの時節にいささかも心得違いをしない

よう、自分(久昭公)の指示を待つように。

(久昭公が)岡を離れ留守中は月番家老の指図に任せている。

今後、心得違いをして妄動する者達には厳重に申し付けておく。

 前々から、このことは考えていた事である。

※妄動之族も有之趣 軽挙妄動(けいきょもうどう)の族(やから)

もあるようだが・・  

小河弥右衛門(一敏)などの行動を指していると思われます。

岡藩の小河弥右衛門ら20名ほども、島津久光の上京に

呼応して討幕運動に参加しようとしていました。

文久2年(1862年)4月16日、島津久光が公武周旋のため京都に入る。

  4月23日、寺田屋事件・久光の帰藩命令に背いた薩摩藩過激尊攘派

有馬新七らが上意打ちで斬殺される。

  小河一敏などは有馬達と合流して討幕の先鞭を付けようとしていた

ようですが、この事件で中止に追い込まれます。