近戸門より城内へ14
岡城の御殿大破  鐘丸様・於芳様 居所転々

嘉永七年(1854年)甲寅  久昭公 御年三十五歳

一、(117日)同日、鐘丸様・於芳様 御殿向御大破ニ付、

御広庭ニ仮御住居御出来、

八日、経武館槍術稽古場へ御引移、

十日、柔術稽古場へ御引移、

十六日、中川平右衛門宅御借上ニテ御引移

一、 二十二日、地震 稍穏ニ相成、

且御殿御取繕モ出来致スニ付、

鐘丸様・於芳様 西御郭御殿へ御帰座

一、 日  闕 去ル五日・七日大地震、御城内御大破ニ付、

老職月番ノ差図ヲ以テ言上トシテ、

田近栗太郎・井上宗三郎江戸へ出立

一、月 日 闕 寒中御献上例ノ如シ

※嘉永7114日、安政東海地震

 落日の宴・勘定奉行川路聖謨(吉村昭著)に見る地震の様子

 畳が左右に激しく動き、部屋の火鉢や煙草盆が篩(ふるい)の上の穀粒

のようにはね、茶箪笥が倒れ、積み重ねられた文書が座敷に散った。建物

が鋭いきしみ音を立てゆれ、太い亀裂の走った壁が土埃をあげてくずれた。

為体(えたい)の知れぬ地響きが、体をつつみこんでいる。

※この頃、川路は伊豆の下田でロシア側と会談中で、4日、朝食中でした。

日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、

ロシア側全権は提督プチャーチン。

※川路聖謨(かわじとしあきら)

豊後日田代官所の役人の息子に生まれ、御家人出身ながら勘定吟味役、

佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任

※余談 慶応4年(1868年)315日、割腹の上ピストルで喉を撃ち抜い

て自殺しました。享年68。その日は新政府軍による江戸城総攻撃

の日で、勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸城の明け渡しが決定したこと

を知らず、病躯が戦の足手まといになることを恐れて自決したとも、

江戸開城の報を聞き、幕府に殉じたとも言われています。