嘉永七年(1854年)甲寅 久昭公 御年三十五歳
一、(11月7日)同日、鐘丸様・於芳様 御殿向御大破ニ付、
御広庭ニ仮御住居御出来、
八日、経武館槍術稽古場へ御引移、
十日、柔術稽古場へ御引移、
十六日、中川平右衛門宅御借上ニテ御引移
一、 二十二日、地震 稍穏ニ相成、
且御殿御取繕モ出来致スニ付、
鐘丸様・於芳様 西御郭御殿へ御帰座
一、 日 闕 去ル五日・七日大地震、御城内御大破ニ付、
老職月番ノ差図ヲ以テ言上トシテ、
田近栗太郎・井上宗三郎江戸へ出立
一、月 日 闕 寒中御献上例ノ如シ
※嘉永7年11月4日、安政東海地震
落日の宴・勘定奉行川路聖謨(吉村昭著)に見る地震の様子
畳が左右に激しく動き、部屋の火鉢や煙草盆が篩(ふるい)の上の穀粒
のようにはね、茶箪笥が倒れ、積み重ねられた文書が座敷に散った。建物
が鋭いきしみ音を立てゆれ、太い亀裂の走った壁が土埃をあげてくずれた。
為体(えたい)の知れぬ地響きが、体をつつみこんでいる。
※この頃、川路は伊豆の下田でロシア側と会談中で、4日、朝食中でした。
日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、
ロシア側全権は提督プチャーチン。
※川路聖謨(かわじとしあきら)
豊後日田代官所の役人の息子に生まれ、御家人出身ながら勘定吟味役、
佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任
※余談 慶応4年(1868年)3月15日、割腹の上ピストルで喉を撃ち抜い
て自殺しました。享年68。その日は新政府軍による江戸城総攻撃
の日で、勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸城の明け渡しが決定したこと
を知らず、病躯が戦の足手まといになることを恐れて自決したとも、
江戸開城の報を聞き、幕府に殉じたとも言われています。

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