徳川家定 13代将軍宣下 岡藩 錫を献上
嘉永六年(1853年)発丑 久昭公 御年三十四歳
一、十一月二十三日、家定公将軍宣下
一、月 日 闕 寒中御献上例ノ如シ
一、十二月三日、将軍宣下済御礼、御献上御太刀馬代銀一枚
一、 六日、右御祝儀御能御拝見、
紅葉ノ間ニ於テ御料理御頂戴
一、日 闕 御国産ノ錫 御献上 箱数詳ナラス
一、 十一日、歳暮御献上例ノ如シ
一、 二十八日、御登城ノ処、御礼後御居残ニテ、
御自書院椽頬ニ於テ御老中御列座、
松平伊豆守様ヨリ此度御国産ノ錫御献上ニ付、
御鐙御拝領
※13代将軍家定 12代将軍家慶の4男
ペリー来航6月3日、12代将軍家慶死去6月22日。
この困難な時期、実績を残すことなく5年後(1858年)死去
※錫 御献上 両鉱山の不振 なけなしの錫の献上
〇尾平山錫山は天正年中(1573~1591)に操業が始まったらしい
(『両部古談』)。その後、寛永中に喜兵衛が銀鉱脈を発見して、
一躍、国内の注目をあつめるようになった。
岡藩では延享年間(1744~1747)ここに鉱山奉行を置いて支配さ
せた。尾平山錫山は天明のころに最も繁栄したといわれている
(『続緒方町誌』)。(清川村誌)
〇(木浦鉱山再建策は)、幕末という政治的背景と共に、藩財政の窮迫と
鉱山の不振を危倶した藩が、鉱山経営の維持強化を図ったのであろう。
しかし、こうした政策も数年来の不振で割当制の米も食い込み効果的
ではなく、生活の維持が図られないばかりか鉱山の不振と相まって、
ますます困窮の度を深めていった。(宇目町誌)
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