近戸門より城内へ10
藩士銘々武器の用意を  12代将軍・家慶死去 

嘉永六年(1853年)発丑  久昭公 御年三十四歳

一、月 日 闕 暑中御献上例ノ如シ

一、七月二十二日、公方様薨御 慎徳院様卜称シ奉ル

一、八月 朔日、御献上詳ナラス

一、   八日、増上寺新御霊前へ御参詣

一、   十日、御中陰中御献上、上様へ砂糖漬一壷

一、 二十三日、御達ニ依り、増上寺慎徳院様御霊前へ、

御香奠御献備白銀三枚

一、九月 二日、重陽御献上詳ナラス

一、   三日、御家中へ御條目ヲ以テ、左ノ通仰セ出サル

   今般相州浦賀表江異船渡来之処、不日致退帆候得共、

迫々 公儀より御達之御主意も有之候、

旁於御手元茂彼是御手宛被為在候ニ付、

御家中ニ而も銘々武器致用意候趣相聞候処、

従来歩方御倍増ニ而、一統難渋相募候中之儀、

何とか御手宛被成下度之処、

何分難被及御手次第も有之候ニ付、

当九月より来八月迄御倍増相成候、

天明二年之歩方御戻被成下候間、銘々手宛之内ニ相加、

可成程致覚悟置可申候也

※ぺりーの来航で、岡藩も長崎などの海岸防備を命じられた場合

を想定して武器の用意を呼びかけていますが、何分にも

知行を半分以上借り上げていては、説得力がありません。

※天明2年(1782年)1027日、御家中歩方御弛渡初て成下さる

  〇歩方御弛渡  知行の半分借上げをゆるめて(禄高の米を)

          渡される。中小姓以上は2歩(20%)に

          弛(ゆる)められたように思えます。