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事件の罪人と家族、合わせて5人を江戸送り

享和元年(1801)辛酉   久貴公 御年十五歳

一、六月十三日、暑中御献上例ノ如シ

一、 二十五日、無宿吉兵衛父子・久吉並妻子共ニ五人、

目篭ニ入レ、

        御先手物頭鴨宮七郎右衛門義雄、

代官役中小性平原仙右衛門惟親差副(さしそえ)、

江戸へ差立ラル、足軽二十四人警衛ス

一、八月 朔日、御献上例ノ如シ、御使者里見 中沢本氏ニ復ス 

三郎左衛門義正

一、   五日、無宿ノ者、品川ヨリ直ニ松平周防守様へ差出サル

※目篭(めかご)百姓・町人の重罪囚を中に閉じ込めて護送に用いた駕籠。

唐丸籠(とうまるかご)とも呼ばれました。

竹で丸く編んだ高さ3(90cm)の籠を台板にかぶせ、

目の粗い網をかぶせ、棒を通し2人でかつぐ籠。

食器を入れる大きさの隙間・御器穴(ごきあな))と、

台板に大小便の落し穴があけてあったようです。

※岡藩家臣の紹介 ① 鴨宮七郎右衛門義雄 100石先手物頭

② 平原仙右衛門惟親  50俵4人扶持 中小姓

③ 里見三郎左衛門義正 400石 用人格

※怨恨が起こした事件とは言え、不可解で理解に苦しみます。

 恨まれた吉兵衛にも子がおり、恨んだ久吉にも妻子がいる。

 それぞれ、住んでいた所が遠く離れ、吉兵衛は備中の天領(現在の岡山県

倉敷市)、久吉は伊勢の藤堂藩(三重県松阪市)で接点が分かりません。

 両者とも在所を捨てて家族とともに逃げたり、追いかけたり、これまた

遠く離れた岡にまでやって来るとは合点がゆきません。

 岡藩としては、護送のための人件費、旅費等の経費を幕府に下さいとは

 言えず余計な出費になりましたね。