
山裏百姓逃散由来の碑
またも風水害 そんな中 延岡藩百姓逃散 岡藩に来る
宝暦五年(1755)乙亥 久貞公 御年三十二歳
一、(8月)二十四日、岡風雨洪水 九月十九日御届出ル
一、九日二日、重陽御献上例ノ如シ
一、十一月七日、当夏天気悪敷、
其上八月二十四日大風雨ニ付、
田畑御損毛御届差出サル、
高三万八千六拾四石三斗
一、 十五日、岡城ニ於テ御女子御誕生、
御名昌卜称シ奉ル、御母ハ側室北條氏
一、十二月六日、寒中御献上例ノ如シ
一、二十一日、歳暮御献上例ノ如シ
一、二十八日、岡城御本丸石垣破損築直御願済セラル
※昌姫誕生 残念ながら早世しています。
※ちょっぴりいい話
宝暦5年延岡藩の重い年貢の取り立てに苦しんだ山裏村
(現・高千穂町上岩戸)の百姓が岡藩の奥嶽組に救いを求めて
逃げてきた事件。
(延岡藩)山裏村の百姓57戸、男女249名が(岡藩)堂内
(どうのうち)村の百姓の家に75日間滞在した。
延岡藩と岡藩との間で大きな問題となり、奥山獄側で奔走した
のは、大庄屋工藤孫兵衛を中心とする人々であった。
結果、本来ならば罪に問われるところを全員が無事に郷里に帰る
ことが出来た。
平成2年(1990)12月9日に宮崎県高千穂町から約80名が当時を
偲んで尾平を越えて尋ねて来た。235年前に長谷川地区の人々に
お世話になったお礼の為である。
奥嶽会(会長 麻生道明氏)が長谷川小学校で歓迎会を行った。
長谷川地区からは100名あまりの参加者があった。
高千穂町側からは、高千穂子供神楽、高千穂町長の特別講演などが
行われた。
平成3年5月8日高千穂町立上岩戸小学校で「山裏百姓逃散由来の碑」
建立除幕式があり、式には緒方町より堀旨克助役など6名が出席した。
(緒方町誌)
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