
くじゅう連山と滝廉太郎像 岡城址より
元禄十二年(1699)己卯 久通公 御年三十七歳
一、(4月)十五日、去ル六月御差出ノ御伺書、
三俣嶽古御絵図論地トコレアル処、
此度御書出ノ御絵図ニ相除クヘキ旨、
井上大和守様ヨリ御張札ニテ御指図ニ依テ、
御当家御領分ニ相極ル
※3代久清公が大船山に中腹に自分の墓を立てるなど、岡藩は
くじゅう連山硫黄山から硫黄の採取、すそ野の軍事演習と
くじゅうを活用していた経緯から見て当然の決定でしょう。
※元禄13年(1699)延岡藩との山争いは込み入っています。
※余談ながら
同じ頃、伊予宇和島藩とその分家吉田藩で山争いが起こっています。
争いがおさまりにくい背景は、藩同士の面子の問題もあるでしょうが、
先祖代々暮らしてきた領民にとっては自分たちの生活が懸かるからです。
幕府に直接訴えた訴状に「地頭は一時、百姓は末代」と云う
言葉があります。地頭(大名)は一時的に配置されただけ、
だけど、百姓はこれからも子々孫々この土地で生きてゆくので
地頭同士で勝手に決められては困るという気持ちを表している
のだと思います。以下次回
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