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延宝九年(1681年)辛酉 久恒公 御年四十一歳

一、六月三日、紅葉山御参詣ニ付、

殿様・若殿様御一同供奉御勤御束帯

一、十二日、右近御評定所へ御呼出シ御調、

十七日、同断、二十三日、御評定所ニ於テ追放仰セ付ラル、

同日、御料理下サレ、路用トシテ歩判百切下サレ、

夕七ツ時 武州板橋マテ送り追放ス、

其段 稲葉美濃守様へ御出御対面、御届仰セ達セラル

※紅葉山御参詣  江戸城紅葉山に、家康以来歴代の将軍の霊廟が

         あったようです。

※歩判(ぶばん) 1分金(1歩判金)いちぶばんきん

 歩判 百切  1分金を100枚か?

※越後騒動 藩政を執っていた首席家老小栗美作と、

これに敵対するお為方の一族重臣と小栗派逆位方の争い。

※余談 将軍綱吉は、前将軍家綱の死の直前、前大老酒井忠清や

高田藩主松平光長が後継将軍に皇族を擁立しようとしたとして、

    2人を快く思っていなかったようで、越後藩の騒動を再判定した

ようです。高田藩が改易になったのもその為だと言われています。

※余談 逆位方 小栗美作とその子大六は切腹、その親族と一派の者は

        流罪、大名家へお預け、追放。

お為方 首謀者は八丈島、三宅島に島流し、その他も大名家

お預け。

※余談 貞享4年(1687年)、光長は老齢および本人に罪はないとして、

綱国とともに赦される。

※余談 小栗派旧臣らによる御家再興運動の結果、徳川光圀の周旋によって

元禄11年(1698年)津山藩として松平家を再興した。