
延宝九年(1681年)辛酉 久恒公 御年四十一歳
一、二十九日、松平越後守光長様御家来 野本右近 御預ケ、
御評定所ニ於テ御渡シ、
依テ 中川覚左衛門重宗 小屋居間ヲ囲ヒ差置ル、
時服二・単物一・麻上下二具、御使者ヲ以遣ハサル、
二汁五菜ノ料理下サル、
羽織・袷等着用ノ為メトテ遣ハサル、
番人用聞ノ者且諸道具等悉ク附置ル、
同日右近儀、公儀へノ書附ノ儀御達コレアリ、
御当家御右筆小島三郎助御前ニテ誓紙仰セ付ラレ、
右近存通書附調へ、
翌朝 稲葉美濃守正則棟へ御持参差出サル
※松平越後守光長 越後高田藩の藩主。松平忠直(一伯)の長男
※越後騒動 光長の嫡子(一人息子)が死去したため、
世継ぎの縁組決定を廻って重臣たちが争いを起こす。
世継ぎは光長の甥・綱国に決まったが、
藩政を執っていた首席家老小栗美作が我が子(光長の甥)を
世継ぎにしようと画策し、藩政治を私物化していると、
他の重臣が結束してお為方を結成。小栗派を、逆位方と呼び
小栗の悪政を訴え小栗の隠居を要求して騒動が広がる。
※家綱のとき幕府が和解の裁定を下し一応おさまった。
※5代将軍綱吉がこの件につき審議をし直し、高田藩は改易になった。
光長は伊予松山藩に、縁組をした世継ぎ綱国は福山藩に
預けられた。
※藩士たちの処分 二手に分れて争った家臣たちも、大量に処分された
ようです。
※その一人、野本右近を処分決定まで、岡藩江戸屋敷に預かる。
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