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明暦元年(1655年)乙未 久清公 御年四十一歳

一、(11月)二十七日、老職中川又左衛門直高 願ニ付、

御暇成下サル

一、十二月二十日、若殿様従五位下二叙シ、佐渡守ニ任セラル

※老職中川又左衛門直高 願ニ付、御暇成下サル

※先祖は、中川清秀公の時からの家老の家

太祖中川清秀公の御代

永禄の頃より家老・田近新次郎長祐 6千石

後、中川平右衛門長祐 と云う

初代中川秀成の御代

  家老・中川平右衛門長祐

  慶長2年隠居職 隠居知行2千石

  慶長5年(1600年)10月、秀成公臼杵城攻めの時、

  佐賀関の戦いで戦死。(2016531日ブログ参照)

  慶長2年より

  家老・中川主馬 中川平右衛門長祐次男 2千石相続

2代中川久盛公の御代

家老・中川主馬 寛永5年正月病死

寛永5年より

家老・中川又左衛門直高 主馬養子 実・新庄右近次男

  3代久清公の御代 

    明暦2年

    家老・中川又左衛門直高 御暇

※不染斎随筆

今年、中川又左衛門長高、願いにて永の御暇下さる。

広計案ずるに、御城中の下原御門内の屋敷より白晝に兵篭をもたせ立退。

京都に登り浪人にてありしと。御暇願いの訳は不詳。

其の頃、野溝又右衛門より江戸在番の中川藤兵衛に書状送る。

此の書状の趣にて考ふれば、又右衛門より差出の書付には、

不遜失敬の事もありて御暇可相願御振合になりしものなるべし。

田近又右衛門は、初め暫く野溝氏と稱す。

※太祖中川清秀公の代から家老を勤めた田近家を、永の暇にした理由が

 今一つはっきりしません。

 理由が書けない事があったのではないかと想像して、

 キリシタンとの関係が言われたりしています。

※中川又左衛門直高 主馬養子 実・新庄右近次男

 新庄家は秀成公の妻虎姫の実家。

 新庄右近はその新庄家と関係があるのか?