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正保四年(1647年)丁亥 久盛公 御年五十四歳

一、日詳ナラス 岡城御発駕 江戸御着月日詳ナラス

一、三月二十一日、兼テ豊後一国ノ絵図仕立差出スヘキ旨、

御当家並ニ稲葉右京亮信通様へ仰セ付置ルヽ処、

出来ス御差出ノ月日詳ナラス

一、四月十五日、御参勤御礼仰セ上ラル、

御献上黄金十両・御袷五

一、七月十五日、肥前長崎へ黒船着岸ニ付、

御使者菅久右衛門、小鉄砲之者二十人召連レ出立ス

一、二十四日、萩原御目附堀三石衛門直景様・平野清左衛門長利様

  長崎へ御越シ、今市御通行ニ付、御馳走役トシテ中川藤兵衛重治

  今市へ相詰ル

※長崎へ黒船着岸 年表で確認すると、この年1647年(正保4年)

ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。

以後、ポルトガル船の来航が絶える。とあります。

※幕府は警備の為に、九州の諸大名に出動を命じたのでしょう。

※長崎に来航した木造の外国船が防水のためピッチを塗っていたので、

その色から黒船と呼ばれたようです。

※萩原御目附 松平忠直(一伯)が大分市津守に流罪になっていたため、

       大分市萩原に幕府の目附が常駐していた。

       島原の乱でも幕府の出先機関として働いています。