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 天正十年(1582年)壬午 清秀公 御年四十一歳

一、(6月)十一日、羽柴筑前守秀吉尼箇崎二到着、諸将各参会ス、

(清秀)公モ御参向ニテ逆賊征伐ノ手分ヲ定メ、

池田(恒興)・高山(右近)等卜京口ノ先手ヲ争ヒ給フ、

高山右近長房云フ、

敵近キ城主ヲ先陣卜定ムル事弓箭(きゅうせん)ノ作法ナレハ、

吾高槻ノ城主タリ、今度京口ノ先陣ハ吾ニテコソアルヘケレト、

秀吉申サルヽハ、各ノ軍功諸人ノ普(あまね)ク知ル所ナリ、

孰(いずれ)ヲ先陣卜定メ難シ、兎角領分遠近ノ次第タルヘシトテ、

高山右近ヲ先陣トシ、公ハ茨木ナレハ二番、

池田勝入・紀伊守信輝更名ハ花隈ナレハ三番卜定メラル、

四番ハ丹羽五郎左衛門長秀、五番ハ神戸三七信孝殿、

六番ハ羽柴秀吉ナリ

※清秀公と高山右近は従弟だそうです。

賤ヶ岳合戦で清秀公が大岩山砦に陣を構えた際も、

高山右近が隣の砦に陣を敷いています。

※合戦場が山崎に想定されたので、そこに一番近い高槻城主高山右近が

 先陣、茨木城主清秀公が2番、現代の神戸、花隈城主池田恒興が3番

 となったようです。