
寛永十五(1638)年戌寅 久盛公 御年四十五歳
一、(1月)五日、近々松平伊豆守信綱様・戸田左門氏鉄様
島原表へ御到着ニ付、
御附使者トシテ横田左平大重秋 下石勘右衛門頼豊・
家原又左衛門差遣ハサル、
勘右衛門ハ伊豆守様ニ附キ、左平太ハ左門様ニ附ク
又左衛門ハ何ノ手ニ附キシヤ詳ナラス
熊田弥五左衛門資英モ御使者トシテ遣サル
※不染斎随筆
御先手の鉄炮頭を古き云い伝へに9人衆と唱えし由。
宗鑑(秀成)公の御代、豊州御打入の頃の9人衆と云うは、
菅大学、横田久左衛門、中川頼母、中川勘解由、安威儀大夫、
柘植数馬、小島三郎衛門、木村右京、池田雅楽助、右9人にて、
20人1組づつ預かりし也。
※ 横田左平大重秋・横田久(九)左衛門660石の子孫か
※ 下石勘右衛門頼豊
寛永15年、宗安(久盛)公御代、
筑前 島原陣の時、下石勘右衛門頼豊組の足軽、
彼地にて城攻めの節用いたりし番指物、今も其組に伝来してあるを
見るに、地へ練絹にて、長5尺2寸5分、中1尺2寸7分ありて、
是にも下の白餅には其の手の足軽大将、下石勘右衛門が家の定紋、
桔梗の花を墨絵にかきてあり・・。
※ 家原又左衛門・
豊州御打入(岡に入国)の頃、家原仁左衛門300石と
あります。その子孫か。
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