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 久盛公の腫物の治療を御年譜で見る

元和二年(1616年)丙辰 御年二十三歳

一、十二月日詳ナラス 岡城御発駕、御腫物気ニテ伏見御逗留

元和三年(1617年)丁巳 御年二十四歳

一、(3月)十八日、御参勤御礼仰セ上ラルヽノ処、

未夕(いまだ)煩モ然々(しかじか)ナキニ 下りタルト上意アリ

一、四月日詳ナラス 御腫物御再発

一、五月日詳ナラス 京都御着、伯安法眼 御頼ニテ御療治

 元和三年(1617年)丁巳 御年二十四

 一、(9月)日詳ナラス 御腫物未夕御平癒コレナキニ付、

伯安法眼 御雇、岡へ御召連レノ儀 御頼ノ処、

其身ハ御断申上、子息 慶徳御供致シ罷下ル

元和四年(1618年)戊午 久盛公 御年二十五歳

 一、(1月15日)同日、京都医師 慶徳 御暇下サレ、岡出立

  一、(2月)十八日、御腫物気 矢張 御同様ニ

  一、閏三月日詳ナラス 御当家ノ医師池田伊豆 御薬差上ケ、追日御平癒

※当時、最高と思われる腫物治療の医者が治療しても、治らなかった

 久盛公の腫物が、池田伊豆が「御薬差上ケ、追日御平癒」しています。

 一泊様御付きの女性の腫物を治す、18年前です。

 文禄3年(1595年)中川家が岡に入部する前、志賀氏の時代から

竹田も宣教師の存在が確認されています。

池田伊豆が西洋医学を宣教師から直接学んだかどうか分かりませんが、

その技術を受け継いでいたことは考えられます。

京都の医者より技量が上だった思われます。

※これから先は、根拠となる資料は在りません。推察です。

 池田伊豆は、3年にわたり苦しんでいた久盛公の腫物を西洋的な手術で

治療したのではないでしょうか。

 「御薬差上ケ・・」は京都の医者も差上げていたと思います。

※昨日の一伯様と池田伊豆の接触について、

 疑問点を解くカギは、目附を除いて、同じ信仰・クリスチャン同士で

 あったから連絡が取れた。と思っています。