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 元和元年乙卯 久盛公 御年二十二歳

一、(7月)二十五日、御帰城

一、日詳ナラス 中川左馬允京都二御差留二付、思召コレアリ、

左馬允ハ隠居分二仰セ付ラレ、嫡子竹松 時に四歳二家督相違ナク、

老職仰セ付ラル

一、十月二十八日、当二月九重山ノ堺目争論、今以テ静ナラス、

依テ老職共ヨリ加藤家老職へ使者ヲ以テ、是マテ在来リノ通相済シ度旨

掛合二及フ

一、十一月日詳ナラス 岡城御発駕、御年賀トシテ江戸へ御参向

一、十二月十四日、九重山堺目争論ノ儀、去ル十月二十八日、老職共ヨリ

加藤家老職マテ掛合二及フト雖トモ、未夕片付ス、依テ堺目ノ儀、

豊後大友屋形以来 当家入国後モ、二十箇年余異儀ナキ儀二付、

是マテノ通致シ度旨 猶 又申遣ス

※九重と久住、その起源は、延暦年間(800年頃)にこの地に九重山白水寺と

  久住山猪鹿寺の2つの寺院が開かれたことにさかのぼる。

 近代に入ると、山群の北麓に九重町(ここのえまち)、

  南麓に久住町(くじゅうまち、現・竹田市久住町)が誕生した。

現在では、火山群や周辺地域全体を指す場合に「九重山」や「九重連山」を用い、

その主峰である単独の山を指す場合に「久住山」を用いるのが一般的である。

 「九重」と「久住」のどちらかにするかで長らく論争が続いたが、

「阿蘇くじゅう国立公園」とすることで決着した。(ウィキペディア)

※中川、加藤家で論争になったのは、久住山南麓の事の様です。7月25日参照