
元和元年乙卯、大阪御陣の節は御船中にて大阪落城の旨達御聴
それより御揚陸にて宗安(久盛)公は御上洛に付、
中川左馬允も御供にて有之処、此の節、古田織部正、大阪城中へ内通者有之やの由、
御咎めにて切腹仰せ付けらる。
左馬允事は孫の続きに付、織部正親類の面附にのり、
公儀より京都に御差留に相成り。
其の後、何の御沙汰もなきにつき宗安公より御親類方へ御頼之にて
公儀御役家へ御内歎有之処、蒙御免。
同(元和)7年辛丙8月2日豊州に下着す。
広計案ずるに、大阪落城の件、御船中播州明石にて相聞え依之、
総御人数は船中より豊州へ御帰し、宗安公は御揚陸にて早々大阪御着。
それより御上洛ありしと云う。
又、左馬允事、京都に7年逗留中は山内土佐守様 兼て御懇意に付
居所普請等も御世話下されたる由。(以下次回)
※御年譜に左馬允が京都に留め置かれた後、左馬允の跡目の事が書かれています。
元和元年(7月)日詳ナラス
中川左馬允京都二御差留二付、思召コレアリ、
左馬允ハ隠居分二仰セ付ラレ、嫡子竹松 時に四歳二家督相違ナク、
老職仰セ付ラル
※中川(古田)左馬允の嫡子竹松 後の中川(古田)藤兵衛重治
※慶長20年7月13日年号改元 元和
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