
○天正十一年 秀成公 御年十四歳
羽柴殿ノ内命二依テ、秀政公 御領知ノ内 一万八千五百石
御分知アリ、御齢モ十四歳タルニ依テ、御軍役等相勤メ、
秀政公ヨリ老職トシテ戸伏助之進、奉行役トシテ上島新左衛門正恒ヲ
附サセラル其余諸士(その他の家来)・御附属ノ輩(足軽等)詳ナラス
○文禄二年 秀成公 御年二十四歳
月日詳ナラス (秀成)公 大明(国)ノ兵卜戦ヒ給ヒ、
敵一人ヲ組シキ刺シ給ヒシ時、聊(いささ)力御手庇ヲ負セラル、
ト錐トモ、御異儀ナシ 中略
其後 加藤主計頭清正ハ、一段ノ御入魂ニテ仰セケルハ、
御舎兄右衛門尉(秀政)殿 自身軽ク御働キ、不慮ノ御討死ノ事、
太閤御心二叶ヒ給ハス、
又(秀成)候 御自身ノ御働キ然ルヘカラストアリケレハ、
(秀成公の)御答ニ、御最(ごもっとも)ナル仰セ
浅カラヌ仕合ニ候、去(さり)ナカラ
只今マテハ右衛門尉力家来同然二罷在シ故、
諸士励ミノ為メニ致ス所ナリ
向後ハ其意ヲ得ラルヘキノ旨御答アリ
慶長十七年壬子 御年四十三歳
一、当御代老職 中川(田近)平右衛門長祐 (佐賀関で戦死)
中川(戸伏)備後
古田平治重続
中川(熊田)大隅資政
古田喜太郎重則 (佐賀関で戦死)
中川(田近)遠江長種
中川(田近)主馬
中川(古田)左馬允垂直
中川(戸伏)主水
※まだ騒乱の時代でもあり、秀成公は内政、外政に藩をまとめて
治めるのに苦労をした印象が感じられます。
※虎姫が竹田に来れなかったのは、京阪の騒乱だけでなく、
岡藩の藩内事情もあったように思えます。
コメント