2020年09月

DS岡城2
久成公の姉栄姫・結婚  中川家族構成 東京府に提出

明治四年(1871年)辛未 久成公 御年二十二歳

一、四月十五日、栄姫様、細川従五位行真殿へ御婚礼

一、五月五日、端午ニ付、御使者ヲ以テ御献上、

例ノ如シ

一、六月二十九日、御記録編緝御用ニ付、東京府貫属掛へ

御明細書差出サル用紙美濃紙 竪九寸 横二寸五分

  宿所賜邸芝口二丁目

元諸侯元高七万四百四拾石余

 祖父 故従五位下中川源久教 非役

  父  従四位 中川源久昭  右同

  岡藩知事

高現石五千弐百四拾石 生国豊後 

従五位源久成中川、 未二十二歳

明治二己巳年二月十四日、被叙従五位下、被任内膳正、

同九月二十三日家督

同日被任岡藩知事、同四辛未年二月二十日、

東京府貫属被 仰付

 

右 同(用紙美濃紙 竪九寸 横二寸五分)

      養祖父故従五位下中川源久貴  非役

      祖父 故従四位下藤堂藤原高嶷 右同

      養父 故従五位下中川源久教  右同

      父  故従四位下藤堂藤原高兌 右同

      従五位中川源久成父隠居

 生国伊勢 従四位源久昭中川

           未五十二歳

 天保十一庚子年十二月六日、家督、

同月二十八日、被叙従五位下、

被任修理大夫、

慶応四戊辰年五月五日、被叙従四位下、

明治二己巳年九月二十三日、隠居

※栄姫様 嘉永2年(1849年)、岡城で誕生、久成公の姉。

DS岡城1
岡藩 少参事田近正徳、赤座弥太郎 東京へ

明治四年(1871年)辛未 久成公 御年二十二歳

「一、二十六日、御達ニヨリ赤座弥太郎ヲ岡ヨリ檻送、

今日、東京へ着ス」

「三月

一、二十四日、少参事田近正徳御不審ノ筋アリテ、

巡察使ヨリ日田県へ御呼出ノ達シアリ、

即日岡ヲ発シ、日田ニ到レハ、

長崎へ送ルヘキノ命アリ」

「一、三月日欠、四ケ所ノ郡庁ヲ廃セラル」

「一、十四日、高山左膳 

巡察使ヨリ長崎へ呼出ノ御達アリ、

即岡ヲ発シ、長崎護送スレハ、

田近正徳一同東京へ檻送ノ御達アリ、

直ニ長崎ヲ発シ、

船路ニテ同廿六日、東京ニ着ス」

※赤座弥太郎、少参事田近正徳  長州奇兵隊を脱走した

大楽源太郎一行が姫島に渡り、鶴崎の毛利空桑を訪ね、

その紹介で岡藩に来て赤座弥太郎、少参事田近正徳らが

彼らを岡藩内に匿い便宜を図った疑いがもたれています。

※赤座弥太郎 明治10年西南戦争の時、薩摩軍に占領された

  竹田市街を奪還する政府軍・警視隊の案内をしています。

  御子孫が今も健在です。

※高山左膳  高山右膳200石のことでしょうか?

 

DS岡城0
久成公 知事家禄の一部を公費、藩債返済にあてる

明治四年(1871年)辛未 久成公 御年二十二歳

「一、四月六日、巡察使附属白杉少一、

兵隊二十名ヲ率テ岡ニ来ル」

「三月

一、二十二日、門石虎三郎

於日田県巡察使ヨリ豊津藩御預ケ相成ル」

「一、六月十九日、弁官へ御進達御何書

先般藩政改革仕候ニ付テハ、諸費補ノ為士族卒等

ノ禄ヲ減省スルノ際、臣独厚禄ヲ拝戴罷在候儀ハ

不安之至ニ付、奉職中家禄ノ内千五百石ヲ納メ、

公廨入費及ヒ藩債消却ノ一助ニ備申度、此段奉伺候、

以上

    未五月      岡藩知事中川久成

同廿日御付札、

  伺之趣尤之義ニ付、被 聞食候事」

※門石虎三郎  50俵4人扶持

※豊津藩  譜代小笠原氏、第2次長州征伐で長州兵に

攻められ小倉城に火を放ち、田川郡香春に

撤退、香春(かわら)藩、のち豊津に移り

豊津藩となる。

※臣独厚禄ヲ・・。(朝廷にたいして)臣・久成が一人だけ

禄を多く貰っては岡藩のことが心配になる。

※被 聞し召され候  うかがいの趣旨はもっともである

から聞き入れます。許可します。

 

おか38
長州の脱走兵隠匿容疑で 関係者6名 日田へ護送

明治四年(1871年)辛未 久成公 御年二十二歳

一、(3月)十三日、今般東京御住居仰セ蒙ルニ付テハ、

大御奥様早速御移住遊ハサルヘキ処、

御邸御手狭ニ付、御家造御出来迄

御在藩ノ御願済セラル

(附箋)「十三日、先般大殿様云々御引直相成度」

一、十九日、御用済セラルゝ旨御達ニ付、

二十一日、日田県御発途、二十二日、岡御着

(附箋)「三月

 一、十七日、赤座弥太郎・門石虎三郎・矢野勘三郎・

最上寺住職是中・大野郡大福寺住職母山・

直入郡玉来村平民矢野束ノ六名、

巡察使ヨリ日田県へ御呼出ニ付、即日護送」

「一、日闕、藩士高山左膳脱徒関係ノ旨自首ス」

※御用済・・。久成公は311日、巡察使から日田によび

       出され、13日から9日間、日田に弁明の

ため滞在していたようです。

※即日護送  この中に、元家老の家系 

岡県小参事田近正徳の名前がありません。

何か特別の配慮があったのでしょうか。

※矢野束   矢野勘三郎の子と思われます。

       勘三郎は勤皇の志士の後援者として

名前が残っています。

※矢野家の家屋敷には、私の子どものころ、子孫と思われ

 る方が住んでいて、屋号で呼ばれていました。

 屋敷を見下ろす近くの高台に立派なお墓があります。

 

おか37
岡藩士が脱走兵を匿ったことの弁明

明治四年(1871年)辛未 久成公 御年二十二歳

   第三条  (その3)

一、浮浪取締向如何致シ居候哉」

浮浪取締ノ儀ハ昨年 御布令以来本行之通

差計候義ニ蹴座候処、

豈図ランヤ赤座弥太郎列ノ者脱徒関係ノ次第、

旧臘弾正台ヨリ御勘問ニ相成、

其後藩ニ於テモ再応及糺問、委曲口上書ヲ以

弾正台御出張所江御達、仕置候通ニ御座候、

然ルニ右様心得違之者出来致候義ハ、

畢竟平素申示方不行届且取締向忽ヨリ差起リ、

不容易事件ニ立到候段探重奉恐懼候

    右御受申上候也

       未三月   岡藩」

※不審者取り締まりの件は、昨年からの布告通り

 取り締まりをしていたところ、思いもしなかった

 岡藩士赤座弥太郎などが脱走兵と関係したとの事。

 昨年12月、(日田の)弾正台より取り調べの問い

合わせあり、岡藩においても事実を糾明し、詳しく

弾正台に御報告し、処罰いたしたところです。

岡藩では不審者取り締まりをしているのに、赤座達の

ような心得違いを出したことは、結局、普段の藩士へ

の指示不徹底であり、かつ、取り締まりをゆるがせに

したことから起ってしまった大事件で重々お詫び申し

上げます。

 

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