2020年09月

DS岡城7 - コピー
久成公 東京に居住へ 岡城278年の役目終わる

明治四年(1871年)辛未 久成公 御年二十二歳

一、八月十五日、岡御発途、十六日、三佐御着、

十七日、蒸気船ニ御乗込

一、  二十日、大坂御着、

二十三日、川蒸気船ニ御乗込、同日、神戸御着、

   二十五日、合衆国蒸気船コストリコ号ニ御乗込

一、 二十七日、横浜御着船、御揚陸

一、 二十八日、東京御着

一、九月六日、第(ママ) 区浅草橋場町弐拾壱番地

表間口七間、裏行弐拾八間邸宅、

第(ママ)大区横山町二丁目壱番地、

平民高木マスヨリ代金六百円ニテ御買入、

御別邸卜御唱

一、(ママ)日、大殿様浅草橋場町御別邸ニ御移徏、

同所ニ御寄留

一、二十二日、天長節ニ付御参賀御頂戴、例ノ如シ

※久成公 惜別の言葉 岡を離れるに際して

 この度、朝廷から改革を仰せ出され、藩知事を免じられる

ことになった。明十五日出発して帰京するが、代々世襲して

来た者として言葉に尽くしがたい惜別の思いがある。

しかし朝廷の思し召しによって、これからは下民に至るまで

身が立つようにとの趣意があり、遠からず県治に定まった規則

も出されることであろうから、これまでどおり布告されること

 を良く守り、心得違いのないようにして欲しい。

役人の命令に背くことは、朝廷に背くことであり、

銘々それぞれの生業を勧め、出精して欲しい。

※岡城は中川氏の文禄3年(1594年)の入城以来、

278年の歳月を経て、その居城としての役割を終えます。

 

DS岡城6
廃藩置県までの岡藩の改革

明治四年(1871年)辛未 久成公 御年二十二歳

一、(7月14日)

同 日、太政官ヨリ御布告左ノ通

     藩ヲ廃シ、県ヲ被置候事

一、十五日、東京府ヨリ御家令御呼出ニ付、

出頭ノ処、左ノ御達書御渡

     別紙ノ通、被仰出候条、此旨相達候事

        辛未七月       東京府

           従五位中川久成殿

     別紙 今般諸藩云々本文之通」

※廃藩置県までの、岡藩の主な改革。

  明治2年   岡城取り壊し(竹田市誌)

  明治32月 藩札廃止

  明治36月 版籍奉還

  明治39月 郡尹を設置

  明治3年   岡県庁、知藩事宅を開設

         藩政の大要を発する。禄制改革

  明治33月 岡で第一回豊後藩県会議

  明治35月 布政司・公用方設置など藩政改革

  明治312月 執政・参政・大監察設置

  明治47月 廃藩置県、岡県成立

  明治411月 大分県となる

※岡城取り壊し 北村清士著書では明治411月~

明治52月です。

DS岡城5
廃藩置県詔書  岡藩知事中川久成 免職辞令

明治四年(1871年)辛未 久成公 御年二十二歳

   詔書

朕惟フニ、更始ノ時ニ際シ、内以テ億兆ヲ保安シ、

外以テ万国卜対峠セント欲セハ、宜ク名実相副ヒ、

政令一ニ帰セシムヘシ、朕嚢ニ諸藩籍奉還ノ議ヲ

聴納シ、新ニ知藩事ヲ命シ、各其職ヲ奉セシム、

然ルニ数百年因襲ノ久キ、或ハ其名アリテ

其実挙ラサルモノアリ、

何ヲ以テ億兆ヲ保安シ、万国卜対峠スルヲ得ンヤ、

朕深ク之ヲ慨ス、仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県トナス、

是務テ冗ヲ去り簡ニ就キ、有名無実ノ弊ヲ除キ、

政令多岐ノ憂無ラシメントス、

汝群臣其レ朕力意ヲ体セヨ

      辞令書

    岡藩 知事 中川久成

 免本官

    辛未七月   太政官

※古いものは改め、新しい制度始めるにあたって、

 国内の人々が安心して暮らせるように、外国に

向かっては諸外国と対等に向き合うことを望めば

名実ともに国内を一つにまとめる必要がある。

そこで、諸藩の版籍奉還を聞き入れ、新しく知藩事

を任命した。

しかし、数百年の因習から抜け出せず、進歩がない。

それで、民を安んじ、諸外国と対峙できようか。

 そのことを深く考察した結果、今さらに一歩進めて

 藩を廃止して県を置き、無駄を省き、名前だけで

実体のないもの、多くの陋習を無くしたい。

諸氏は私の考えを入れて行動してもらいたい。

DS岡城4
廃藩置県の詔書公布  久成公 藩知事免職の辞令

明治四年(1871年)辛未 久成公 御年二十二歳

(附箋)「御本文十四御席等人々混雑致シ居候ニ付、

左ノ通御改相成度

一、七月十四日、御用之儀被為在候ニ付、

東京詰合之権大参事宗重計為御名代参朝候様、

太政官ヨリ御達ニ付、則同人参朝ノ処、

諸藩ノ名代一同列座、天皇出 御、

右大臣三条実美殿左ノ 詔書捧読畢テ入御、

引続其席ニテ式部頭坊城俊政殿ヨリ藩知事

御免職ノ御辞令書御渡相成ル

※太政官からの御用で、東京に岡藩の連絡係として詰め

ている、宗重計権大参事が久成知事の名代として出席

したところ、諸藩の名代が列席しているところに、

天皇がおいでになった。

右大臣三条実美殿が左の詔書(次回紹介)を奉読

天皇が内にお入りになり、続いて式部頭坊城俊政殿

 より藩知事(久成公)免職の辞令を渡された。

※「ひろちゃん」さんから、9月24日のブログ

  高山左膳  高山右膳200石のことでしょうか?

  について、下記のようにメールをもらいました。

「高山左膳とは、久貴公長子、久利君の長子だと思います。

(前名栄太郎、諱、重博)

ありがとうございました。

※久利君  10藩主久貴公の長男、幼名三千蔵

  久貴公の正室満姫が生んだ絢姫に、井伊家から久教公を

  養子に迎え11代藩主にしたため、久利君は部屋住みで

  生涯を終えます。

 

DS岡城3
藩を廃止 県を置く  廃藩置県

明治四年(1871年)辛未 久成公 御年二十二歳

一、七月十四日、太政官ヨリ左ノ通御布告

     藩ヲ廃シ、県ヲ被置候事

      辛未七月   太政官

一、十五日、東京府ヨリ宗権大参事重計御呼出ニテ、

御封書壱通幷ニ別紙御渡

     御封書

       岡藩  知事中川久成

      免本官

      辛未七月  太政官

     別紙

    別紙之通被 仰出候候、此旨相達候事

       未七月      東京府

      従五位中川久成殿

                東京府

 今般諸藩被廃候ニ付而ハ、元知事之面々

 御用有之候条、一同当九月中帰京候様可相達事

       辛未七月    太政官

※宗権大参事重計  権大参事・宗重計

    岡藩の卆族に宗家は2軒あります。

   宗 楫磨 100俵、 宗 六蔵 404人扶持

※足軽(卆族)の者が行政職に就くことは、江戸時代は

考えられません。宗重計は優秀な人だったのでしょう。

※久成公 帰京を命じられる。

11月には豊後諸藩を統一、新しく大分県が成立します。

 

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