明治元年(1868年)戊辰 久成公 御年十九歳
一、十二月七日、御総髪ニナラセラル
明治二年(1869年)己巳 久成公 御年二十歳
一、正月十五日、初テ天機御窺トシ(ママ)
岡城御発駕、
十六日、三佐御着、
十九日、同所ヨリ御乗船
一、二十三日、大坂御着
一、二十六日、京都御着
一、二十八日、初テ御参朝、
天機御窺済セラレ、
御番御筆頭松平讃岐守頼聰殿ヨリ
御番入御願ノ通、仰セ蒙ラル
※松平頼聰(よりとし)讃岐高松藩11代(最後の)藩主
※昨日の勝海舟日記の続編
○17日 野津原に宿す。五里、山の麓にて、人家可ならず、
八幡川あり。大抵一里半ばかり、川堤に沿うて路あり。
海道(街道)広く、田畑厚肥、桃、菜花盛、関東の三月頃
の気節なり。
民のかまどゆたけきものをしらぬいのつくし生てう
野津原の里
○ 野津原の宿より出ずれば、山路。
この道、久住山を左に見る。
往時、この宿の村長三輔なる者、山中より水源を引き、
三渠を引く。これより古田20余町、新田30余町を得た
りと、その事業を記し碑あり。 七里。
○18日 久住に宿る。細川侯の旅亭。惣体、葺屋、素朴、
花美の風なく、庭中泉を引き、末、田野に流る。
七里地は、久住の山脚にして、殆ど高崇、地味可なり。
山泉を引きて左右に導く。
※三輔 工藤三助 元禄11年(1698)から享保9年(1724)に
かけて大龍井路(おおたついろ)、かぎ(金偏に侖)小野井路
(かぎおのいろ)、堤子井路(ひさごいろ)の3井路を掘削。




