2020年07月

岡城29
久成公 岡藩の知事に任ぜられる

明治二年(1869年)己巳  久成公 御年二十歳

一、(923日)同日、岡藩知事ニ任セラル、

御書附左ノ如シ

     可

              従五位源朝臣久成

    任岡藩知事

        右大臣従一位藤原朝臣実美宣

        右大弁従三位藤原朝臣俊政奉行

       明治二年己巳九月二十三日

一、二十四日、右御礼申上ラレ御献上、御太刀代金二千疋

※藤原朝臣実美  三条実美(さんじょうさねみ)  

藤原朝臣俊政  坊城俊政(ぼうじょうとしただ)

※父・久昭公は御年譜で見る限り知藩事、知事の辞令を

正式には受けてないようです。

明治2年(1869年) 久昭公 御年50歳

一、(5月)21日、召ニ依テ御参朝ノ処、

諸藩へ御下問左ノ通

   版籍返上之儀、追々衆議被聞食候処、

(中途省略)

海内統一可被遊御旨趣ニ付、

改テ知藩事ニ被任候思食ニ候間、

 〇 改めて知藩事任命にする思し召し・・。

明治2年(1869年)  久昭公 御年五十歳

一、7月2日、知藩事未タ仰セ付ラレサル面々へ

 〇 知藩事に未だ任命されていない面々へ・・。

 

岡城28
久昭公 隠居  久成公 家督相続

明治二年(1869年)己巳  久成公 御年二十歳

一、(9月)二十二日、天長節ニ付、御参賀御献上、

御太刀代金二千疋、御酒饌御頂戴

一、二十三日、召二依テ御参朝ノ処、

久昭公御願ノ通御隠居、

公へ御家督御相続仰セ蒙ラル、

御書附左ノ如シ

    可

              従五位源朝臣久成

    父久昭致仕使汝襲其秩

        右大臣従一位藤原朝臣実美宣

        右大弁従三位藤原朝臣俊政奉行

       明治二年己巳九月二十三日

(附箋)「殿様御願之通、御隠居御家督共々可然歟」

※御年譜に記載されてない事項

  914日、兵部省の命令で、函館戦争で降伏した

  榎本武揚の兵、5人を岡藩で預かっています。

〇戊辰の戦 函館表の降伏兵預り

   岡  藩

  別紙ノ者共於函館表、官軍に抗敵候処、今般降伏候聞、

其ノ藩へ預ケ申付候故、国元ニ引取り禁錮為致置可申事、

 但シ、禁錮中タリト雖、見込ヲ以テ使役等可為勝手候事。

  別紙ニテ  矢口 謙斉   飯島 善蔵

  朝倉 隼之助  長田 金吾  星野 唯八 以上五人

5人は、岡城小普請小屋に入れられ監視されていましたが

33月、矢口、飯島の2名は御免となり静岡藩へ、

  長田金吾、星野唯八は禁錮を解かれ、使役。その後不明。

  朝倉隼之助は病死したようです。

三佐002のコピー
久成公 三佐より蒸気船に乗る

明治二年(1869年)己巳  久成公 御年二十歳

一、七月八日、百官及ヒ位階四位ヨリ初位ニ至ル迄、

上下ノ称廃セラルヽ旨御達ニ付、

従五位卜称シ奉ル

一、八月朔日、御使者ヲ以テ御献上、御太刀代金二千疋

一、 十七日、召ニ依テ岡御発駕

一、 十八日、三佐御着ノ処、殿様急ニ御帰藩ノ御報

コレアリ、御対顔トシ(ママ)御滞座

一、二十八日、殿様御着、御対顔

一、九月朔日、同所ヨリ蒸気船ニ御乗込

一、  四日、大坂御着

一、  九日、重陽ニ付、御使者ヲ以テ御献上、

御太刀代金二千疋

一、 十九日、東京御着

※百官及ヒ・・。 久成公は2月14日、

従五位下ニ叙シ、内膳正に任官。

  これから、従五位のみの官名になります。

※八月朔日  81日(朔日・ついたち)、八朔(はっさく)

 この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに

贈る風習が古くからあった。このことから、田の実の節句

ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の

間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、

その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。

※疋(ひき) 1両=400疋≒10万円 

       2000疋≒50万円

※重陽ニ付  9月9日、重陽の節句

 

岡城26
久成公 岡城を退城 鷹匠町中川屋敷へ

明治二年(1869年)己巳  久成公 御年二十歳

一、三月三日、上巳ニ付、御参賀御献上、

御太刀一腰、御酒饌御頂戴

一、  同日、大宮御所へ御献上、干鯛一箱、

       中宮御所へ右同

一、 十九日、御帰藩ノ御願済セラル

一、二十三日、京都御発駕

一、二十四日、大坂御着、

二十五日、同所御乗船

一、四月五日、三佐御着

一、  九日、岡城御着

一、五月五日、端午ニ付、御使者ヲ以テ御献上、

御太刀代金二千疋

一、二十八日、今般封土御返上ニ付、御退城、

鷹匠町中川左近宅へ御移徏

※岡城を退城にあたって、久昭公の藩中への布達

〇 今般以書、致布達置候通り、版籍奉還、

奉仰天裁候上ハ、此儘城中ニ罷在候儀、

名分混乱、深ク奉恐入候。

依之久成始メ挙族退城致シ、

西ノ丸ニ議政所ヲ設ケ、

   謹デ 朝政ヲ奉行致候様、及下知候間、

家中末々ニ至ル迄、此旨趣特卜可相心得候也

   3月16日の布達。北村清士著書より。

 

岡城25
久成公 従五位下 内膳正 に任ぜられる

明治二年(1869年)己巳  久成公 御年二十歳

一、(128日)同日、大宮御所・中宮御所へ御参、

御機嫌御窺

一、 晦 日、東京御出輦迄御滞京仰セ蒙ラレ、

御番ヲ免セラル、

但シ五日ニ一度、天機御窺トシテ

御参朝仰セ蒙ラル 御書附写しハ、

久昭公御譜ニ載ス

一、二月十四日、召ニ依テ御参朝、

従五位下ニ叙シ、内膳正ニ任セラル 

御書附写しハ、久昭公御譜ニ載ス

一、十五日、右御礼申上ラレ御献上、御太刀一腰

一、 同日、大官御所へ御献上、干鯛一箱、

      中宮御所へ右同

一、二十日、去ル十八日殿様御謹慎仰セ蒙ラルヽニ付、

御謹慎御窺書差出サルヽ処、

其儀ニ及ハセラレス旨御達

※東京御出輦 輦に乗って明治天皇が東京に出発

※輦(れん)お祭りの時の御神輿に似ています。

※殿様御謹慎  駿府への岡藩兵派遣が遅れたことで

        処分を受けました。

  岡藩には指示を受けて、派兵する藩兵の数が不足し

  そんな余裕がなかったようです。

詳しくは617日のブログを見てください。

 

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