2020年05月

岡城c72
岡藩士 正親町卿帰京の供 蒸気船に乗る

慶応4年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

ところがこの報告を兼ね一応正親町少将は京都へ御帰京

することとなった。

4月21日夕、蒸汽船富士丸に、品川港から乗船、

4月23日、下田沖に御停船、24日、同所を出発され、

27日、紀州三木の浦へ繋船し、翌28日、天候の快晴を

待って出港した。

28日夕、紀州須佐美港へひとまづ寄泊し、

翌29日、出帆したが逆風にて再び須佐美港へ引戻して

停泊した。かくて5月2日5ッ時、大阪天保山沖にようやく

着船されたが、川口洪水にて陸揚げ困難を極めた。

程なく大阪御蔵屋敷に入り、少時御休息の上、8ツ時同所を

出発し、5ツ時、牧方へ到着されて同地へ宿泊。

同3日6ツ半、御供をそろえて御出発、昼7ツ時、無事京都へ

お着きになった。

少将は休む暇なく直ちに宮中へ参内して委細御報告を申上げ、

天皇陛下より御酒肴の御饗応を戴き、9ツ時退出して丸太丁の

自邸へ帰られ長途の疲れを慰められた。

 5月4日藩主(中川久昭公)の上京の由をきき警備員一同は

その宿舎に御機嫌お伺のため参上した。

処が御意をこうむり、その上お酒肴を一同に賜った。

また同11日重ねて藩主より御目録にて、特に士列拾名に対し

各7両づつを下賜された。 〇昨日と同じ、北村清士著書より

※蒸汽船富士丸  富士山(ふじやま)、元幕府海軍所属

  文久2年閏821日(1862年)、幕府が米国に発注

  元治元年(1864)ニューヨークで竣工、千トン、乗員231

  慶応元年(1866)127日、横浜に到着。

慶応26(1866)第二次長州征討に出動。

慶応4(1868)411日幕府より朝廷へ献納。

 

岡城c73
岡藩士 正親町卿の供として江戸城へ  

慶応4年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

 岡藩士(正親町)少将を警備して江戸下向、

江戸城西丸へ入る。

 同(慶応)4年2月15日、東征大総督有栖川宮殿下が進発

された。そこで正親町少将はこれが参謀に任命され、俄に

御出馬と決定した。

岡藩士一同も共に出陣を仰せ付られ、2月15、出発し陸路を

へて、3月5日武蔵国府中に到着した。

 府中には4月8日まで滞陣して、同15日、東京に着し直ちに

池上本門寺に宿営した。

その翌16日、東京の芝御本坊口の守備を命ぜられた。

 さて4月21日、正親町少将は芝本坊口から、江戸城の西丸へ

転陣された。

一同はお供して再び城中に入り、吹上御苑を始め、城中各所に

秘蔵された宝物什器のかずかずを検分する機会を与えられた。

ただしこの検分こそ後の皇居と定められた重要な基となった

のではなかろうか。

〇 岡藩勤皇思想の沿革と明治維新のあけぼの

     北村清士著 竹田市岡鶴堂印刷所発行より

※東征大総督有栖川宮殿下 有栖川宮熾仁親王

(ありすがわのみやたるひとしんのう

※正親町少将 正親町三条実愛

(おおぎまちさんじょうさねなる)

  文久3年の8月18日の政変で朝廷に復帰した後は、

薩摩藩に接触して討幕派公卿の一人として朝廷を主動した。

明治元年(1868年)に新政府の議定、その後、刑部卿、

内国事務総督、教部卿等などを歴任した。

岡城c71
駿府城警衛 猶予願 久昭公帰藩中 人員不足

慶応4年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

一、(5月)十七日、京都ニ於テ、駿府城へ差出サルヘキ

御人数操出方御猶予願書左ノ通、

御留守居里見庄二郎ヨリ軍務官へ差出ス

      口上覚

  此度駿府城御警衛被 仰付候条、早々人数差出、

厳重可相守旨御沙汰之旨、以御書附被 仰渡、奉畏候、

然処、修理太夫儀、先達而家政向為指揮帰邑願之通

被 仰付、去ル十一日御当地出立罷下申候、

就而者、此表ニ残置候人数茂行届兼候上、

当春正親町中将殿御東行之節、

為御警衛御附属被 仰付、詰合之士両差出置候、

旁差当り駿府へ之御警衛ニ差出候人数、

在京不仕候、依之在所表へ御書付之趣可申遣候得共、

不遠修理太夫上京仕候儀ニ付、

夫迄之処御猶予被成置被下候様、宜御聞置被下度、

此段奉歎願候、以上

         中川修理太夫内

    五月十七日    里見庄二郎

※この度、駿府城の警衛を仰せつけられ、速やかに人数を

差し出すようとの御沙汰、おそれいります。

然しながら、藩主久昭儀、先達、藩政治指揮のための帰藩

を許され、511日、京都を発ちました。

就きましては、京都に残留する人数も行き届かず、この春、

正親町中将殿の関東行きに警衛を仰せつけられ、連絡要員を

2名現地に残しています。そのため、当面、駿府へ警衛に

差し向ける人員は京都には居らず、こちらより岡へ朝廷から

の命令を伝えますが、遠からず藩主久昭が上京致しますので、

それまで御猶予を下さるよう、宜しくお聞き届け下さい。

この通り嘆願致します。

※当春正親町中将殿御東行・・。次回紹介します。

 

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神仏混交の禁止令 中川家3代の廟 神式に改まる

慶応4年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

一、(5月)十五日、去ル三月二十三日、中古以来

某権現、或ハ牛頭天王杯卜称シ、

其外仏語ヲ以テ神号ニ称スル神社少ナカラス、

何レモ其社ノ由緒ニ基キ、称号相改へキ旨御達ニ付、

今日御宮三柱神御称号 左ノ通御改

    ミナモトノキヨヒテ

    源清秀神   荘岳大明神

     ヒテマサ

    源秀政神   心岳明神

     ヒテシゲ

    源秀成神   宗鑑明神

一、同日、御宮御称号ヲ荘岳社卜御改

※今は中川神社として、市内拝田原にうつっています。

※仏語ヲ以テ神号  ・・権現神社、馬頭神社など

※慶応4年3月12日、神仏混交を禁ず(神仏分離令)

       17日、社僧に復飾を命ず(僧侶の還俗)

       28日、神社より仏像、仏具の排除命令

           廃仏毀釈運動へエスカレートする

※神仏分離令は神道と仏教の分離が目的であったが、

 拡大解釈した人々や長年仏教に虐げられてきたとされる

神職者たちが各地で仏教排撃運動を起こした。

※薩摩藩の廃仏毀釈は徹底していて、鹿児島県では現在、

 国宝や重要文化財の仏像は1点もないようです。

岡城c69
岡藩 駿府城警衛を命ぜられる

慶応4年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

一、(5月)十一日、(久昭公)京都御発駕

一、十四日、軍務官ヨリ御留守居御呼ヒ出シニテ、

左ノ通仰セ蒙ラル

              中川修理太夫

      右、駿府城御警衛被仰付候条、

至急ニ人数繰出、厳重可相守旨、

      御沙汰候事

        五月十四日

※軍務官  慶応4年閏(1868年)421日)、

三職八局の体制を太政官七官とし、

新たに軍務官が置かれ、郷兵・招募・

守衛・軍備の事項を担当した。

※同月(5月)11日久昭公は京都を出発され、

同28日岡へ帰着された。

ところがこの帰藩の途中で同月14日軍務局から、

駿府城ヘ警衛のため出兵の命が、京都の留守役ヘ

あったが不用意にも留守居の里見庄二郎の不束に

よって出兵せず後日の問題を起した。

  (〇 岡藩勤皇思想の沿革と明治維新のあけぼの)

     北村清士著 竹田市岡鶴堂印刷所発行より

※里見庄二郎の不束 この件に関しては、

  御年譜には記載がありませんが、記載内容と関係が

ある場合順次紹介します。

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