2020年05月

岡城c78
軍資金5万円 岡藩の疲弊 上納御免の嘆願

慶応4年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

一、(7月)十七日、左ノ御歎願書、事務官へ差出サル

 私儀、兵隊出張之儀ニ付、不行届之筋有之候ニ付、

 軍資金五万円差出候様被 仰付、恐懼之至探心配仕候、

然ル処、先年より猿ケ辻御固、

且又兵庫御警衛六ケ年程打続相勤、莫大之物入相嵩、

殊ニ前年城下九分通茂焼失、旁以国力及疲弊、

家中扶助茂不行届之次第ニ陥り候折柄、

今般被 仰出之金高、迚茂上納出来仕兼候上、

過日差出之兵隊御差戻相成候而者、於武門何分赤面之至、

心痛当惑仕候、依之兵隊之儀者、

此上人数精々相増可差出候間、軍資金上納之儀者、

前段疲弊之廉、乍恐御無憐被成下何卒蒙 御免候様、

只管奉歎願候、以上

       七月十七日   中川修理太夫

※駿府城御警衛の兵隊派遣が遅れ、5万円の軍資金を

  申し付けられ恐懼の至りです。しかし、岡藩は

  猿ケ辻御固、兵庫御警衛6ケ年で莫大な出費、

  元治元年(1864年)5月、岡城下9分通りも焼失、

  藩が疲弊、家臣の扶持米も行き届かなくなっている。

  そこに、今度の軍資金5万円、とても上納出来かねます。

  先日の、兵隊を帰藩させられたことは、中川家にとって

  武門の恥で赤面の至り、心痛当惑しています。

  兵隊をこれまで以上に朝廷に差し出しますので、

  軍資金の上納については、恐れながら岡藩の疲弊を

哀れと思召して御免くださるように、

只々、嘆願致します。

 

 

岡城c77
兵隊の上京が遅れ 久昭公 謹慎処分願出す

慶応4年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

一、(7月)九日、上京候四十二人兵隊、

御用無之候間、帰藩申付

軍資金五万円上納可致之旨御沙汰

一、十日、右ニ付、恐入御謹慎ノ御願書、

行政官へ差出サル

一、同日、右御願書差出サルヽニ付、

昨九日御達書ノ御譜暫時御猶予ノ御願書、

軍務官へ差出サル

一、日闕 右御謹慎ニ及ハセラレサル旨、

行政官ヨリ御達

※行政官 官制は、立法を掌る議政官、

行政を掌る行政、神祇、会計、軍務、外国の五官、

次に司法を掌る司法、刑法官の七官とした。

 行政官は、輔相二名を置いて議定をしてこれを兼ねしめ、

天皇を輔佐して議事を奏宜し、国内の事務を督し、

宮中の庶務を掌らしめ、その下に弁事等を置き、

公卿、諸侯、大夫、士庶を以て之に補し、事務を分担せしめる。

会計官は出納、用度、駅逓、営繕、税銀、貨幣、民政の七司を置き、

軍務官は海軍、陸軍の二局及び築造、兵船、兵器、馬政の四司を管轄し、

外国官は外国交際、貿易、開拓のことを、

刑法官は監察、鞠獄、捕亡の三司を管理した。

又各官には親王、諸王、公卿、諸侯を以て補任する

知官事一名、公卿、諸侯、大夫、士庶を以て補任する

副知官事一名及び判官事(正、権)を置いた。

     〇天皇の世紀9 大佛次郎著 朝日新聞社

 

岡城c76
上京の兵隊 帰藩、軍資金5万円上納 申し付けられる

慶応4年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

一、(6月)二十三日、岡城御発駕

一、日闕 駿府城御警衛ノ兵隊四十二人着京ノ旨、

軍務官へ御届書差出サル

一、七月四日、京都御着、直ニ御参内、

御退出ヨリ大宮御所へ御参、御機嫌御伺ノ上、

御旅寓本禅寺へ御着

一、九日、軍務官ヨリ左ノ通仰セ蒙ラル

          中川修理太夫

 此頃上京候四十二人兵隊、御用無之候間、

帰藩申付候、

仍而者当今之時節篤与相弁、為軍資金五万円、

早々当官へ上納可致之旨御沙汰候事

※軍務官の指示  重ねての無理な要求

この頃上京の岡藩の兵隊42名、もう用がなくなった

ので岡に帰るように申し付けられる。

  かさねて、当今の時勢を長々と話し、その結論として

  岡藩は軍資金5万円をすぐに軍務官に差し出すように

  命令した。

※軍務官  慶応4年閏(1868年)421日)、

三職八局の体制を太政官七官しとし、

新たに軍務官が置かれ、郷兵・招募・

守衛・軍備の事項を担当した。

岡城c75_edited-2
駿府城警衛 猶予 岡より兵隊派遣を指示される

慶応4年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

一、(6月)三日、右御模様伺トシテ軍務官へ

里見庄二郎出頭ノ処、井田五蔵 官職詳ナラス 

面謁ニテ再度歎願ノ趣御聞届相成ニ付、

早々国許ヨリ人数操出スヘキ旨演説コレアリ

一、十三日、御位階御昇進ニ付、

御居間書院ニ於テ御祝儀ノ御囃子コレアリ、

老職ヨリ時計ノ間マテ拝見仰セ付ラル

※井田五蔵  井田 譲(いだ ゆずる)、通称・五蔵

   大垣藩士(現在の岐阜県大垣市)。

  藩主侍講、砲術教授方、評定役、京都留守居役などを勤め、

  1868年、新政府に出仕し軍務官判事試補となる。徴士・

軍務官権判事などを歴任、陸軍少将。元老院議官、男爵。

大垣藩は鳥羽伏見の戦いで幕府方につき朝敵になる。

  その後、勤皇派が佐幕派を説得、朝廷に謝罪、戊辰戦争

  では新政府軍の東山道軍の先鋒を務めた。

※官職詳ナラス  朝廷の役人に対する反発を感じます。

地方から出てきた(朝廷の事務についた)微士、貢士は

過去に自分たちの身分、地位では決して許されなかった

「作る仕事」に存分に働く機会を得た。新しい情熱を知った

のである。また、専門家でもなかった彼等の発案が面白い

くらいに反対や抵抗にも遭わずに上層の承認を得て採用

された。 〇天皇の世紀9 大佛次郎著 朝日新聞社

※御位階御昇進 久昭公の官位

天保11年(184012月、従五位下、修理大夫、

元治元年(1864年)4月、従四位下(一度辞退)

岡城でお祝いをしたようです。

 

岡城c74
駿府城警衛猶予願 却下  再度猶予願を出す

慶応4年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

一、(5月)二十八日、岡城御着

一、(5月)十七日、駿府城へ差出サルヘキ

御人数操出方御猶予願書

一、日闕 右願書御取揚相成難キ旨ニテ、

軍務官ヨリ御下渡

一、六月二日、御人数操出方御猶予ノ再願書左ノ通、

御留守居里見庄二郎ヨリ軍務官へ差出ス

      口上覚

  駿府御警衛被 仰付候処、修理太夫暫時帰邑中ニ付、

早速国許へ可申遣候得共、不遠上京仕候ニ付、

夫迄之処御猶予之儀、別紙之通奉願候得共、

御取揚難相成、此表残置之人数差出、

尚又其内国許ヨリ操出候様御沙汰之趣奉畏、

條理上ニ於テハ御尤之儀、再度御歎茂難申上候得共、

纔ニ残置之兵両丈ニ而御用度相済候義ニ御座候得者、

私共取計方茂御座候得共、夫ニ而者名而巳之儀、

是非国許より相応之人数繰出不申而者難相叶儀候得者、

一応主人へ申聞、其指図ニ依り出張為仕度、

此段御汲取被下、国許より便宜相達候迄、

御猶予之儀奉歎願侯、以上

          中川修理太夫内

      六月二日    里見庄二郎

※(中ほどより)おっしゃることは、御尤もでございます

  ので、再度嘆願するのも申し上げにくいのですが、

  京都にいる兵は2名のみで御用を済ませております。

  私どものやり繰りも名義だけのことで、岡より人数を

  連れてこなければ任務を果たせないので、久昭公の

  意向を聞き、その指図で駿河に行きたく思います。

  このことを、御汲み取り頂き、それまで御猶予を

  お願いいたします。

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