2020年04月

岡城c37
物価高騰、世情不安  救済策を全国に求める

慶応三年(1867年)丁卯 久昭公 御年四十八歳

      御布告書 (その2)

 一、近年物価格別騰貴、如何トモスヘカラサル勢、

   富者益富ヲ累ね、貧者益窘急ニ至り候趣

   畢竟政令不正ヨリ所致、民者王者之大宝、

   百事御一新之折柄、旁被悩宸衷、

智謀遠識救弊之策有之候者、無誰彼可申出候事

   右之通御確定被 仰出候ニ付而者、

   六十余州之大小藩者申ニ不及、陪臣・吏卒之

   末々ニ至ル迄、御趣意厚相心得候様、御沙汰候事

※近年物価格別騰貴、いかんともすべからざる勢い、

 富者は益富をかさね、貧者は益窘急(きんきゅう)に

 至り候趣、ひっきょう政令不正より致す所、

民は王者の大宝、百事御一新の折柄、かたがた

宸衷(しんちゅう)を悩まされ候。

智謀遠識、救弊の策これあり候者、誰れ彼れとなく

申し出づべく候。

  右の通り御確定、仰せ出され候については、

  日本60余州の大小藩は申すに及ばず、

  陪臣・吏卒の末々に至る迄、

御趣意を厚く相心得候様、御沙汰候事。

※この頃の世情を「天皇の世紀」で見ると

〇この頃、ほとんど全国的に凶作、米価騰貴、村役人の

非違を原因にして、江戸時代で最も数多く農民や庶民

の打毀しや暴動が起こった。

〇慶応3年の秋から冬にかけて、理解を超えた

「ええじゃないか」の騒動が湧水のように各所から

起こった。

岡城c36
太政官制を起こす 朝廷の身分、家格の因習を改革

慶応三年(1867年)丁卯 久昭公 御年四十八歳

一、(12月)十五日、御所御仮建ニ於テ、

正親町少将ヨリ左ノ御直達コレアリ

      御布告書  (その1)

 一、内覧・勅問御人数・国事御用掛・議奏・武家伝奏・

守護職・所司代総而被廃候事

 一、太政官始追々可被為興候間、其旨可心得居候事

 一、朝廷礼式追々御改正可被為在候得共、

   先 摂籙・門流之儀被止候事

 一、旧弊御一洗ニ付、言路被洞開候間、見込有之向者、

不拘貴賤無忌憚可致献言、

且人才登庸第一之急務ニ侯故、心当之仁有之候者、

早々可言上候事

※すべて廃止の役職 7つ

内覧 天皇あての文章、裁可文章を先に見る役職。

      主に摂政、関白とその経験者。

※新しく起こす制度  太政官制

※改正する制度  朝廷内部の身分制、家格の因習を改める。

   まず先に、摂籙・門流(せつろく・もんりゅう)

   (摂政や関白に任ぜられていた家系制度)を停止。

※言語洞開し、献言を促す、人材の登用

   国の将来を考えている者が居れば、身分の貴賤を

問わず忌憚なく意見を述べるように。

   朝廷に人材がいないので、人集めは急務である。

心当たりのある人があれば、推挙するように。

岡城c35
王政復古の号令  旧来 驕惰の汚習を洗う

慶応三年(1867年)丁卯 久昭公 御年四十八歳

一、(12月)十五日、御所御仮建ニ於テ、

正親町少将ヨリ左ノ御直達コレアリ

     御布告書

  徳川内府従前御委任大政返上、将軍職辞退之両条、

今般聞食候、抑癸丑以来未曽有之国難、

  先帝頻年被悩宸襟候御次第、衆庶之所知ニ候、

依之被決叡慮、 王政復古、国威輓回之御基被為

  立候間、不論既往更始一新、自今摂関・幕府等廃絶、

即今仮ニ、総裁・議定・参与之三職ヲ被置、

万機可被行、諸事神武創業之始ニ原キ、

縉紳・武弁・堂上・地下之別ナク、至当之公議ヲ竭シ、

天下ト休戚ヲ同ク可被遊叡念ニ付、各勉励、

旧来驕惰之汚習ヲ洗ヒ、皇国之タメ忠誠ヲ可尽候事

※徳川府       徳川内大臣=徳川慶喜

※從前御委任大政返上  大政奉還

※癸丑以来    嘉永6年(1853年)

※未曽有之国難  黒船来航にともなう未曾有の国難

※先帝・・。   孝明天皇の時から朝廷の悩み

※自今摂関・幕府等廃絶 今日より、

摂政、関白、幕府等を廃止

※諸事神武創業之始ニ原キ  すべてを神武天皇の

   国の始まりに基づき

※縉紳(しんしん)  官位の高い人、身分のある人

※武弁(ぶべん)   武官、武人

※堂上(どうじょう) 寺院の住職

※地下(じげ)    一般庶民

 

岡城c34
御布告として「王政復古の大号令」を記載

慶応三年(1867年)丁卯 久昭公 御年四十八歳

一、(12月)十五日、御所御仮建ニ於テ、

正親町少将ヨリ左ノ御直達コレアリ

      被 仰渡御手控

    別紙御布告ニ相成候御趣意ハ、

普く皇国御維持被遊候訳ニ而、

  朝廷・徳川家之御中ニ少しも異事被為在候儀ニ者無之候間、

其段可相心得事

  但、人才撰挙之儀者急務ニ付、早々可申出事、

  口述ニ人才撰挙と申者、陪臣・草奔之中たりとも俊傑の者ハ、

封書を以申上候様との御主意なり

※王政復古の大号令は129日に出されましたが、

  1214日に諸大名に示されています。

※別紙御布告・・。 大号令布告書の前文になっています。

  普(あまねく)皇国を御維持あそばされる訳にて、

  朝廷と徳川家の御仲に少しも異なることあられ候儀は

  これなき候間、この段、相心得るべき事。

  但し、人材選挙の儀は、急務に付早々に申し出るべき事。

  口述に人材選挙と申すは、陪臣、草莽の中たりとも、

  俊傑の者は、封書をもって申し上げ候様との御主意なり。

※① 日本全体を天皇中心の国として発展させること。

 ② 朝廷と徳川家の間に異議があるわけではない。

 ③ 朝廷には人材が払底している。身分がいかに低かろうと、

   才能の有る者を推挙するように。

岡城c33
岡藩 御所警備を免ぜられる 

慶応三年(1867年)丁卯 久昭公 御年四十八歳

一、(12月)十四日、京都参与役所ニ於テ、

左ノ御達書御渡

    日御門前北御守衛之儀、被免候間、

明朝人数可引払候事

      十二月十三日

       御口達

     人気居合之為被免候旨

※御達書

京都御所の前、北の御守衛を免ぜられたので、

 明朝(14日朝)警備の人数を引き払うこと。

※御口達  口頭での御達し

 話し合いで折り合いをつけ免ぜられた。

1213日、二条城に居た慶喜は、幕府の要人を引き連れ

  大阪城に入っています。京都の行政、守護を任務にして

いた京都所司代、守護職も任を解かれます。

  京都駐在の薩摩藩兵と薩摩と盟約を結んだ長州藩兵が

  上京しつつあり、慶喜としては衝突を避けたかった

ようです。

  この様な状況の中で、岡藩の御所守衛が解かれています。

※「岩倉公実記」天皇の世紀8より、その代替として

  青山左京大夫(篠山藩)、本多主膳正(膳所藩)、松平図書

(亀山藩)等へ市中取り締まりの儀、仰せ出され候間、

 訴訟以下毎事右の藩へ申出づべき事。

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