2020年04月

岡城c43
鳥羽伏見の戦いの際 岡藩は御所の警衛

慶応四年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

一、(正月)二十六日、参与役所ヨリ太政官代二条城ニ相成、

参与役所モ同城内ニ設ケラレ、

尚又諸藩宮門警衛ノ者、

銘々旗幕並ニ桃燈ニ至ル迄菊御紋相用ユヘク、

且追討仰セ付ラレタル諸藩、

出兵ノ隊毎ニ菊御紋ノ幟一本ツヽ相用ユヘキ旨御達

※御年譜には鳥羽伏見の戦いで岡藩がどう動いたのか、

   記述がありません。

※「岡藩勤皇思想の沿革と明治維新のあけぼの」

   北村清士著 竹田市山川 岡鶴堂印刷所に

   次のような記述があります。

 〇翌4年正月3日に夜半から幕府方の兵が反乱を起こした。

  その砲火は鳥羽、伏見が特に激しく、

京都も兵火酣(たけなわ)となった。

よって正親町少将実愛公の命によって、岡藩士らは

  各々甲冑に身を固め、宮中へ急に参内し、御警衛の

任についた。

  しかし大事に至らず翌4日御所から一同に対し、

慰労のための御酒肴が下賜され、一同は感激新たなる

ものがあった。

岡城c42
鳥羽伏見の戦い 始まる

慶応四年(1868年)戊辰 久昭公 御年四十九歳

一、正月三日、伏見ニ於テ、

徳川家卜薩州外諸藩卜戦争始マル、

    七日、徳川慶喜大坂城退去

一、  九日、御所御仮建ニ於テ、御達コレアリ 

御達書詳ナラス

一、二十日、主上御元服御祝儀御献上、

御太刀一腰・御烏一匹代銀二枚、

御使者 姓名詳ナラス

※「天皇の世紀」8に見る鳥羽伏見の戦いの発端

滝川播磨守は赤池の部落の北端まで出て馬を下り、前方の

薩摩の隊から椎原、山口両監軍を呼出して、京への通行を

求めた。

 「一応朝廷にお伺いし、御許可ない限り通行は許さぬ」と

頑固に拒絶した。最早日没に近づいた。再三の交渉の末、

滝川も待っていられなくなって、午後5時に、夜になるから

強行して通ると宣告した。椎原はこれに対し、自分たちは朝命

を奉じ、この地を守るものだから、臨機の対応に出ると答え、

味方の陣へ下って行った。 (中略)

滝川播磨守は部下に前進を命じた。幕軍縦隊が動き出すと、

薩軍は合図の喇叭を吹き、街道上の大砲が轟然と火を吹き、

散開した陣地からは一度に銃撃を浴びせた。(中略)

 滝川は大目付であって、上表伝奏の使者で軍隊の指揮は任務

 でなかった。

 薩軍の第一発の砲弾は、赤池の北端路上に列んでいた幕府軍の

大砲三門中の砲車に命中し炸裂し、滝川の乗馬が驚いて狂奔し、

鳥羽街道を爆走した。不意の銃火砲撃に縦隊の長い隊列がみだれ

た中に、奔馬が躍り込んで、混乱に拍車をかけ、先頭の隊は採る

べき行動に出られなくなった。

 

岡城c41
諸大名 日和見か? 上京を渋る

一、同日、参与役所ヨリ左ノ通御達

   御一新御変革ニ付而者、 御下問之儀

   被為在候ニ付、迅速上京可有之、

更被 仰出候事

   但、兼而者十一月中登京之儀御沙汰も可有之候故、

旁速ニ上京可有之候、若所労之人休候ハヽ、

為名代重職之者可差出候事、

     演舌書

   是迄之御奏より被相達、上京#名代等

   有之候得共、此度御変革御一新ニ付、

更ニ被召候間、以前之届有之分も取調、

可被差出候之事

※御維新の御変革については、御下問することがあるので、

  速やかに上京するように。

  更に仰せ出され候事。

  但し、兼ねては11月中に京に上るようにとの御沙汰も

  これあり候故、かたがた、速く上京するように。

  もし、病気で休息の人があれば、名代として重職の者を

  差し出すように。

   演舌書(説明書)

  これまで朝廷より達せられた藩主の上京または重職の

  名代のこともあるけれども、この度は御変革、御一新の

  ことだから、さらに上京を促された。以前の経緯も振り

返り代表を京に上らせるように。

※この間の様子を「天皇の世紀」7では

 ・・・二条摂政も賀陽宮も寧ろ幕府の同情者で、政権を返還

されたのに迷惑して、取り扱いようも知らなかったので、

諸侯の上京を求め、その会議によって決定する意向を示し

ただけで、諸大名も口実を設けて上京を渋り・・。

岡城c40
岡藩士 参与・正親町邸の警衛につく

慶応三年(1867年)丁卯 久昭公 御年四十八歳

一、(12月)十七日、正親町少将殿御邸へ警衛トシテ

侍分人数十人差出スヘキ旨、参与ヨリ御達ニ付、

猿ケ辻御守衛出張ノ人数ソノ侭差出サル

一、十八日、頃日御変革御混雑ノ虚ニ乗シ、

悪徒横行ノ聞へコレアルニ付、

洛中洛外巡邏御沙汰ノ処、

正親町殿御邸ニ有合ノ人数差出サルヽニ付、

巡邏ハ御免ノ御歎願書差出サル

※正親町(おおぎまち)少将殿の御邸に警衛として

侍身分の者を、数十人派遣するように参与役所から

御達しがあったので、猿が辻の御守衛に出ている者達を、

そのまま、少将殿の御邸に派遣した。

※この頃、王政復古変革の混乱に乗じて、悪党が横行して

いるとの話が聞こえてくるので、洛中洛外の警戒のため

巡回をするように御沙汰があったが、正親町殿の御邸に

ありあわせの人数を派遣するために、巡回警備は免除して

下さるように嘆願書を提出した。

※正親町少将公董(きんただ)父・中山忠能の2男

姉・中山慶子は明治天皇の母親

王政復古後、慶応3年(1867年)1213日、

参与に就任。

のち、東征大総督参謀、奥羽追討白河口総督を勤めた。

岡城c39
御年譜に記載のない 和宮の条項

慶応三年(1867年)丁卯 久昭公 御年四十八歳

     御布告書 (その3)

 一、和宮御方先年関東ヘ降嫁被爲在候得共、其後将軍軍薨去、

且 先帝攘夷成功之叡願ヨリ被爲許候處、

始終奸吏ノ詐謀ニ出御無詮之上ハ旁一日モ早ク

御還京被爲促度近日御迎公卿被差立候間、

其旨可心得居候事。

※和宮御方、先年、関東へ降嫁あらせられ候えども、

その後、将軍薨去、

且つ、先帝攘夷成功の叡願より許させられ候ところ、

終始、奸吏の詐謀に出で、御無詮の上は、

かたがた一日早く御還京促させられ度く、

近日、御迎え公卿御差立てられ候間、

その旨心得居るべく候事。

※和宮の条項を加えた理由 「天皇の世紀」7より

大号令は、多年の追放の末に、初めて参内を許された友山入道

岩倉具視が懐中に準備して出てきたものであった。

 岩倉具視が急進派の若い公家に排除されて失脚した原因が、

和宮の降嫁を周旋したのを咎めたものだったので、今度朝廷に

復帰するに当たって、過去の罪を払拭する新しい立場を明確に

しようとして、この箇条を加えた。

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