2020年03月

岡城c2
小倉口 総督小笠原壱岐守 長州攻め準備指令

慶応二年(1866年)丙寅  久昭公 御年四十七歳

一、五月二日、江戸ニ於テ端午御献上例ノ如シ、

御使者 姓名詳ナラス

一、十三日、小倉表御目附ヨリ左ノ通申来ル、

尤小笠原壱岐守様ヨリ御達ナリ

   毛利大膳父子、御裁許万一及違背、

御討入相成候節者、四国・九州討手之面々

一方之為指揮、老中若年寄之内出張可有之候間、

四国・九州討手之面々へ無急度可被達候事

一、六月朔日、若殿様御半髪御袖留ノ御祝儀コレアリ

※小笠原壱岐守長行(ながみち) 老中 肥後唐津藩主

   第2次長州征伐で小倉口の総督、幕府軍歩兵隊、

小倉藩、熊本藩など九州諸藩の軍の指揮をした。

   この人は一徹の人だったようで、その後の戊辰戦争、

   函館戦争と最後まで幕府に忠義を尽くし、

明治24年(1891年)東京で死去しています。

※毛利大膳父子 長州藩主毛利大膳敬親と毛利長門定弘

※御裁許 長州の処罰裁定 

   ① 長州藩の禄高10万石削減

② 藩主毛利大膳敬親は蟄居、隠居

③ 毛利長門定弘は永蟄居

   ④ 家督を興丸に譲り、26万余石を与える

   ⑤ 右衛門介(益田親施、長州藩永代家老)

越後、信濃の家名断絶

※若殿様・・。13代久成公 大人の髪型、服装の祝い 

岡城c1
長州より依頼  幕府 長州脱走兵の捕縛指示

慶応二年(1866年)丙寅  久昭公 御年四十七歳

      覚

  別紙之通 毛利大膳家来より申出候旨、

松平安芸守より相届候間、為心得相達候、

尤 右之趣、九州筋討手之面々へも可被達候事

      四月

※別紙のとおり、毛利大膳(藩主毛利敬親)の家来より、

 申し出のあったことは、松平安芸守(広島藩主浅野安芸

守長訓)より取次があった。

それで、その注意事項を通達する。

もっとも、その注意事項は、長州征伐のため九州に

布陣している各藩にも通達を出しておく。

※(別紙2)    毛利大膳家老中

備中(岡山県)の国で狼藉を働いた長州の賊徒たちは、

さる4月14日、備中の阿部川を川船で下るところを

広島藩より鎮圧のため派遣された三兵隊員で討ち取り、

残党は散乱し鎮圧したため、鎮圧に派遣した兵員並びに

軍の目付は広島に帰った。

もっとも、逃亡した者達もいるので、先に通達した

ことを、なお、これからも厳重に守るように。

このことを、九州方面に配備された各藩にも知らせること。

〇(別紙2)      毛利大膳家老中

 備中路乱妨致し候賊徒、去十四日同国阿辺川筋川船にて

乗下り候処、芸州表より為討鎮被差遣候三兵隊御人数ニ而討取、

残党散乱及鎮定候ニ付、被差向候御人数#軍目付等帰芸致候、

尤逃去候輩も有之候ニ付、先達而相達候趣、猶厳重可被相心得候、

右之段九州筋討手之面々へ可被達候事

   四月

〇(別紙1)

 大膳領内南郡屯集之内、百四、五十人斗、当月四日夜、

兵器相携令脱走候ニ付、万一如何様の所業可致哉も難斗、

早速行衛探索、召捕方手当等、厳重申付置候、

畢竟右旨趣如何之次第哉者、慥ニ不相分候得共、

追々申出置候通、国内情実ニ付而者、鎮撫説得方苦慮

不一形候処、一昨冬巳来之次第も有之、

且昨冬主人父子多年之誠意、士民一統之情実共、

巨細被聞召届被下候而者、最早平常之御沙汰をも

可被仰出御事、闔国奉渇望居候処、今般御達振ニて者、

何歟不取留、道路之風説をも伝聞致し候、

乍恐闔国意外の御沙汰振ニも可立至哉と疑惑し、

余り憂憤ニ不堪より差起候ニ而も可有之哉、

何共不相済次第ニ付、於国元者勿論捕方手配等

急速厳重申付候へ共、他国罷出候義も難斗、

為念不取敢致御達置候間、億万一貴国罷越候ハヽ、

被召捕被下候様致御頼侯、

此段幕府向へも宜様御届被成置被下候様仕度、

 致御願候、以上

   四月

岡城B17
倉敷代官所襲撃をうけ 同種の事件、長州人への警戒指示

慶応二年(1866年)丙寅  久昭公 御年四十七歳

一、(4月)二十六日、豊前小倉表ニ御詰ノ大小御目付塚原但馬守様・

溝口出羽守様・松平左金吾様ヨリ、宿継ヲ以テ申来ル、

尤小笠原壱岐守様ヨリ御達ナリ、御達書左ノ通

    去ル九日夜、備中国倉敷陣屋へ長州浪人与相唱へ

    多人数及乱妨之由、同所御代官より届申出候ニ付、

夫々討鎮方相達候、右党類之もの自然其地へ潜入、

可及乱妨茂難斗候間、厳重手当申付、胡乱之者

    有之候ハ、召捕、時宜次第討取候様可被致候、

右之趣、九州筋討手の面々へも可被達候事

       四月

※小笠原壱岐守よりの達書

 さる4月9日夜、備中(岡山県)の倉敷陣屋へ長州の

浪人が呼応して多人数で乱入と、同代官所から届け出

があったので、それぞれ、鎮圧した。

右の党徒の類が密かに各地に潜入し乱暴に及ぶかもしれ

ないので、厳重に警戒し胡散臭い者がいたら捕縛し、適時

処刑するように。右の趣旨を九州各地の討手の者達にも

通知をするように。 

※これは長州奇兵隊の倉敷陣屋事件を指すと思われます。

血気にはやる奇兵隊が長州藩の幕府に対する態度が生

ぬるいとして起こした事件の一つです。

第2奇兵隊隊員の行動を隊長が叱責したことから隊員が集団

で脱走。そのリーダーが立石孫一郎で、彼は倉敷の豪商の家

で養われ、大橋敬之助と名乗っていました。

150余名が脱走して、そのままでは隊には帰れず、幕府の

代官所を襲い、その手柄を土産に隊に復帰しようとしたよう

です。そこで、地理に詳しい倉敷に向かい、代官所を襲撃、

放火、焼失させました。

詳しくは次の著作が参考になります。

「天皇の世紀」6 大佛次郎 平凡社

  「倉敷の若旦那」司馬遼太郎 講談社文庫

 

岡城B16
岡藩士2名 失火の疑い 京都東町奉行の取り調べ

慶応二年(1866年)丙寅  久昭公 御年四十七歳

一、(4月)十二日、亥ノ刻頃、京都猿ケ辻御普請場小屋ヨリ

出火ノ処、程ナク鎮火ス、

右ニ付、御番処詰ノ内組士松岡何右ヱ門・足軽広瀬角

   三郎両人、東町御奉行大久保主膳正様御役所ヨリ

御調ノ儀コレアリ

※岡藩が猿ケ辻(さるがつじ)に割り当てられた警備の理由

 〇文久3年(1863年)520日、

  尊王攘夷を唱える過激派公家として知られた姉小路公知

(右近衛少将、国事参政)が、午後10時頃、朝議を終え、

帰宅の途中、朔平門外を越えた猿ケ辻あたりで覆面をした

刺客3人に襲われ、顔や胸部に重傷を負い、自邸に搬送され

たが、翌日死去した。

22日、犯行に使われたと思われる刀が現場に残されて

いたことから、薩摩藩士田中新兵衛ほか2名が逮捕された。

しかし、田中新兵衛は奉行所内で自決、事件の真相は

未だに不明のままです。

〇 文久3年(1863年)7月1日、

伝秦野宮宰相中将様より猿ケ辻御固め仰せつかる。

これは、「先般御築地内異変の儀これあり、・・」 

  それ以来、岡藩が警備につくようになったようです。

岡城B15
長州藩主、家老への度々の呼出状 なぜ岡藩にある?

慶応二年(1866年)丙寅  久昭公 御年四十七歳

         毛利大膳へ

             毛利大膳家老

               宍戸備前

               毛利筑前

   右之者共へ相達し候義有之候間、

広島表へ可被差出旨、先達而相達置候処、

若病気候共、押テ来廿一日迄ニ罷出候様、

可被申付候

      四月

   一合符 壱枚

     但、御趣意者不相分候へ共、

御封込ミにて一同御渡ニ相成

※宍戸備前親基(ちかもと)長州藩毛利家筆頭宍戸家当主。

             周防国三丘11代領主。

※幕府との交渉役の宍戸備後助は名前の通った宍戸備前の

名前をうまく利用したようです。

宍戸備後助・本名は山県半蔵、のちの宍戸璣(たまき)

※毛利筑前元亮(もとすけ)長州藩家老。右田毛利家の11代当主。

※長州藩主、家老共へ通達したいことがある。

 広島へ出て来るように、以前より通知している通りである。

 もし病気であろうとも、無理をしてでも 4月21日までに

出て来るように申し付ける。

※一合符(あいふ)壱枚  受け取ったことを証明するもの。

ただし、趣旨は分からないが、封書に入れて一同に渡された。

※長州藩宛の通達が岡藩に多く残っていることの意味は、

 長州への同情論が多い中、幕府が長州に対して、丁寧な対応

をしている文書を公開し、反幕府感情を和らげる効果を狙って

いたかもしれません。

 

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