2020年02月

岡城址24
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5日 慶応と年号が代わります

元治二年(1865年)乙丑  久昭公 御年四十六歳

一、(5月)五日、年号改元

慶応元年

一、(5月)十六日、公方様江戸御発途

一、二十六日、大坂ニ於テ牧野越中守様ヨリ、

摂州神戸御警衛御人数高ノ儀、

昨子年御承知置ノ儀ニハコレアレトモ、

此度御進発ニ付テハ御実備相立様ナサレ度、

出張ノ御人数高#ニ大砲ノ員数等巨細御承知ナサレ度、

取調申上へキ旨御達

一、二十九日、摂州神戸出張ノ御人数高#ニ武器員数、

先般御届ノ後相替ル儀コレナキ旨御届差出サル

※公方様江戸御発途 将軍家茂が長州再征のため江戸を出発

  三度目の上洛になります。

522日家茂は朝廷に参内して、長州の再征を上奏、

921日に長州の再征の勅許を孝明天皇から受けます。

  幕府は第2次長州征伐に向けて動き出しますが、

  第1次長州征伐のように簡単にはゆかなくなります。

※牧野越中守貞直(さだなお)大坂城代 常陸笠間藩8代藩主

  岡藩の摂州神戸御警衛の人数や装備の実態を問い合わせて

  います。再度の問い合わせで、前回と変わりがないので、

  岡藩では、先般の届と変わりがないと答えています。

岡城址23
長州征伐 岡藩も人数備置きを命ぜられる

元治二年(1865年)乙丑  久昭公 御年四十六歳

一、(4月)二十一日、今般御進発ニ付テハ、

中国・四国・九州筋ノ面々何レモ国邑へ人数備置へキ旨御達

一、 同 日、去ル十八日、大坂ニ於テ御目附赤松左京様ヨリ、

摂州神戸御固場御武器類、且御人数等書出スヘキ旨御達ニ付、

巨細御届書差出サル  御届書詳ナラス

一、二十二日、大坂ニ於テ是迄御当家並ニ加藤遠江守様・松浦肥前守様・

大村丹後守様衆へ長府屋敷御預ケノ処、

今日ヨリ免セラルヽノ旨、西町御奉行松平大隅守様ヨリ御達

一、五月二日、端午御献上例ノ如シ、御使者姓名詳ナラス

※摂州神戸御固場  攘夷決行のため警固を命ぜられていた

岡藩の武器と人数も届け出ています。

※御固場に岡藩が配属されたのは、

文久3年(1863年)510日より攘夷決行の動きにより、

 〇文久3218日、朝廷からの御書附

攘夷実行について、岡藩で人数を揃える準備が必要だろうから、

久昭公は小河弥右衛門達を引き連れ、岡に帰り警衛の人数を

揃えなさい。   

〇文久3331日、

岡藩、摂津湊川辺より武庫川まで御固め仰せ蒙らる、

※岡藩が担当する現在の神戸・湊川から西側を高松藩松平隠岐守、

味泥側の東側を作州津山藩松平三河守が警護担当しています。

※長府屋敷  長府藩の大坂屋敷 長府藩は長州藩の支藩 

現在の下関市長府です。高杉晋作ゆかりの功山寺があります。

※松平大隅守信敏(のぶとし)旗本   目附赤松左京の上司

岡城址22
将軍家茂 5月16日出陣決定 第2次の長州征伐へ

元治二年(1865年)乙丑  久昭公 御年四十六歳

一、(4月)十五日・十六日・十七日、日光山ニ於テ、

権現様二百五十回御忌御法会コレアルニ付、

御献上御太刀馬代銀一枚、御使者姓名詳ナラス

一、 十七日、此度御進発ニ付テハ、

御大名様方御参勤トシテ御国邑御発途ノ儀、

暫時御見合コレアルヘキ旨、

中国・四国・九州筋へ御達コレアリ

一、 十九日、毛利大膳父子へ、

先般塚原但馬守・御手洗幹一郎ヲ以テ

       仰セ出サルヽノ御趣意若シ相背カハ、

急速御進発遊ハサルヘキ旨仰セ出シ置ルヽノ処、

未タ模様ハ相分ラサレトモ、

容易ナラサル企コレアル趣相聞へ、

更二悔悟ノ体モコレナク、

且御所ヨリ仰セ進セラルヽ趣モコレアルニ付、

御征伐トシテ五月十六日、御進発ノ旨御達

※権現様二百五十回御忌  徳川家康の250回忌

1616年(元和)2417日死去

※此度御進発・・。 この度の将軍家茂の長州征伐の出陣に

際しては、各大名は江戸への参勤のため国元を出発する

ことをしばらく、見合わせるように。中国、四国、九州の

大名に御達しがあった。

岡城址21
第2次長州征伐に向かって動き出す

元治二年(1865年)乙丑  久昭公 御年四十六歳

一、四月朔日、

先般御上坂ノ儀仰セ出サルヽノ処、

方今長防ノ形勢全ク鎮静トモ相聞ヘス、

既ニ激徒再発ノ趣モコレアリ、京師ニ於テ、

深ク宸襟ヲ悩マサレ、仰セ進セラルヽ儀モコレアリ、

且先般塚原但馬守、御手洗幹一郎差遣ハサルル御趣意

若シ相背ニ於テハ、急速御進発遊ハサルヘク、

御日限仰セ出サルヽ節ハ、

御差支コレナキ様致スヘキ旨御達

一、十二日、公方様御進発仰セ出サルヽノ処、 

御神忌御法会済ノ上、御発途遊ハサルヘク、

此度ハ御軍事ノ儀ニ付、御武備ノ外ハ先規ニ拘ハラス、

格別御省略アラセラレ、御手軽ニ御発途遊ハサルヘク、

依テ御供ノ面々実備専一ニ相心得、

聊モ虚飾箇間敷儀コレナキ様致スヘキ旨御達

※先般御上坂ノ儀・・。 この前、大坂へ来るよう・・。

  近頃、長州の様子は全然鎮静化したとも思えない。

  すでに藩に反逆する勢力が再発した様子もみえ、

  京都の天皇も心配しているところである。

  そのため、つい先ごろ、大目附塚原但馬守が目附の御手洗幹一郎を

  (長州藩主親子を江戸に護送するため)派遣した。

  もし長州がそれに背くようであれば、すぐに将軍が出馬するので、

  その日が決まれば、出陣するように準備するよう、御達しがあった。

※長州に逃れた三条実美たちも江戸に護送する計画もあったようです。

岡城址19
長州藩 俗論派が藩政奪還 幕府に謝罪

元治二年(1865年)乙丑  久昭公 御年四十六歳

一、(3月)十八日、

長防鎮静ニ及フニ付、公方様御進発ハアラセラレス、

   時宜ニ依り、猶仰セ出サルヽ儀モコレアルヘキ旨、

先般仰セ出サルゝノ処、京師ヨリ仰セ進セラルヽ儀コレアリ、

此度御上洛ノ儀、仰セ出サル、

然ルニ未タ長防其外ノ御処置モコレナキニ付、

   御発途ハ暫ク御見合、時宜ニ依り、

速ニ御発途仰セ出サルヽ儀モコレアルヘク、

御不都合コレナキ様致スヘキ旨御達

※長防鎮静ニ及フ・・。 長州は謝罪して来たので、  

   将軍家茂の出馬はなくなった。しかし長州の処罰が

決まらないので、将軍の出馬もあるかもしれないので、

長州追討の藩は準備をしておくように御達があった。

※長州藩は、元治元年(1864年)11月に3人の家老を818日の

政変、禁門の変の責任者として切腹させ、藩主毛利敬親が

謝罪文を提出した。幕府は長州藩が恭順の意を表したとして

長州征討を中止した。これで、第1次長州追討は終わった。

あとに、降伏後の長州藩の処罰が残った。

※長州藩の内戦   謝罪恭順の藩重役に反旗

   高杉晋作の功山寺挙兵 長州内戦

   元治元年1215日夜、長府の功山寺で藩政を握る重役

(俗論派)を倒すため挙兵。

長州では、幕府へ謝罪して藩の存続を願う勢力(俗論派)と、

幕府へ服従するが追討軍には抗戦するという勢力(正義派)が

争い。藩内の対立抗争は強まり、元治元年12月には正義派の

高杉晋作らが藩の下関会所を襲撃した。

翌年、2月から奇兵隊などの諸隊と藩鎮静軍との戦闘が始まり、

長州藩内は内戦状態に陥った。

この内戦で正義派が優勢となり、3月に俗論派を排斥。

幕府が長州を攻撃するならば抗戦する体制に変わった。

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