文久三年(1863年)癸亥 久昭公 御年四十四歳
一、 日 闕 京都市中巡邏仰セ蒙ラル
一、月 日闕 江戸ニ於テ寒中御献上例ノ如シ、
御使者 姓名詳ナラス
一、十二月十五日、京都市中巡邏免セラル
一、二十一日、江戸ニ於テ歳暮御献上例ノ如シ、
御使者 姓名詳ナラス
一、二十九日、若殿様御名代ニテ御参詣等ノ節、
向後御供列都テ殿様ノ通タルヘキ旨
仰セ出サル
※市中巡邏 因州・備前・阿波・米沢など13藩が輪番で市中警備に
当たったようです。有名な新選組は松平容保に命じられ、
別に市中巡邏をしています。
※8月18日の政変と7卿の都落ち
薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した8月18日の政変で
攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる三条実美ら急進的な
尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除。失脚した尊王攘夷派の
7人の公家が京都を追放され、兵庫津から長州藩へと落ち延びた。
※「日課心覚 熊田清六」より、長州勢退却の様子。
(8月)19日 雨
一、今朝8時頃、大坂より早飛脚到来、京師よりの書状写し其儘送り来る。
17日夜半頃より、御所内騒々敷く、依って諸家御人数追々出張、
御屋敷にても、覚左衛門殿初め皆々出張相成り候。
市中は申すに及ばず、大騒動、何の故や色々風聞は候えども、
実説更に相成らず、19日にも御人数候様これなく、未だ何故や相分らず、
昨夜以来の騒動実に大変の次第のよし申し参る。風説書は別巻に写す。
(8月)20日 雨曇半天
一、夕、長州御人数京師より引取り候よしにて、何れも乱髪に白の鉢巻き、
筒袖の衣服具足下着の儘、常服は白のたすきを掛け、小袴、まち高袴の
類着用し、間にはくさり帷子、陣羽織等着用致したるも有り、自身に
槍鉄砲を持ち剣簡数多有り、剣斗り持ちたるも有り、何の故や相分からず、
兵庫に着の分、清末人数三百人程、岩国人数三百人程のよし。
※清末(藩)、岩国(藩)ともに、長州藩の支藩




