2020年01月

岡藩宿営地神戸
京都市中巡邏 「日課心覚」より8月18日の政変

文久三年(1863年)癸亥   久昭公 御年四十四歳

一、 日 闕  京都市中巡邏仰セ蒙ラル

一、月 日闕 江戸ニ於テ寒中御献上例ノ如シ、

御使者 姓名詳ナラス

一、十二月十五日、京都市中巡邏免セラル

一、二十一日、江戸ニ於テ歳暮御献上例ノ如シ、

御使者 姓名詳ナラス

一、二十九日、若殿様御名代ニテ御参詣等ノ節、

向後御供列都テ殿様ノ通タルヘキ旨

仰セ出サル

※市中巡邏  因州・備前・阿波・米沢など13藩が輪番で市中警備に 

当たったようです。有名な新選組は松平容保に命じられ、

別に市中巡邏をしています。

※8月18日の政変と7卿の都落ち

   薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した8月18日の政変で

攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる三条実美ら急進的な

尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除。失脚した尊王攘夷派の

7人の公家が京都を追放され、兵庫津から長州藩へと落ち延びた。

※「日課心覚 熊田清六」より、長州勢退却の様子。

(8月)19日 雨 

一、今朝8時頃、大坂より早飛脚到来、京師よりの書状写し其儘送り来る。

17日夜半頃より、御所内騒々敷く、依って諸家御人数追々出張、

御屋敷にても、覚左衛門殿初め皆々出張相成り候。

市中は申すに及ばず、大騒動、何の故や色々風聞は候えども、

実説更に相成らず、19日にも御人数候様これなく、未だ何故や相分らず、

昨夜以来の騒動実に大変の次第のよし申し参る。風説書は別巻に写す。

(8月)20日 雨曇半天   

一、夕、長州御人数京師より引取り候よしにて、何れも乱髪に白の鉢巻き、

筒袖の衣服具足下着の儘、常服は白のたすきを掛け、小袴、まち高袴の

類着用し、間にはくさり帷子、陣羽織等着用致したるも有り、自身に

槍鉄砲を持ち剣簡数多有り、剣斗り持ちたるも有り、何の故や相分からず、

兵庫に着の分、清末人数三百人程、岩国人数三百人程のよし。

※清末(藩)、岩国(藩)ともに、長州藩の支藩    

 

姉小路
御所門前の暗殺事件 久昭公 警護を命ぜられる

文久三年(1863年)癸亥   久昭公 御年四十四歳

一、月日闕 江戸ニ於テ暑中御献上例ノ如シ、

御使者姓名詳ナラス

一、七月朔日、伝秦野宮宰相中将様ヨリ御家来御呼出ニテ、

猿ケ辻御固メ仰セ蒙ラル

一、  六日、御同所様ヨリ御家来御呼出ニテ、

先般御築地内異変ノ儀コレアリ、

早速御人数御差登セ、御用御伺ノ段、

叡聞ニ達シ、御満足ニ思召サルヽノ旨、

御賞詞ヲ蒙ラセル

一、九月二日、江戸ニ於テ重陽御献上例ノ如シ、御使者姓名詳ナラス

一、二十二日、松平安芸守様御上地御用ニ付、

御預ケ免セラル 御預ケノ年月日祥ナラス

※先般御築地内異変ノ儀  姉小路公知が暗殺された

朔平門外の変(さくへいもんがいのへん)と思われます。

文久3年(1863年)520日、尊王攘夷を唱える過激派公家

として知られた姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が、

禁裏朔平門外の猿ヶ辻(さるがつじ)で暗殺された事件。

※薩英戦争 文久372日~4日、薩摩藩とイギリスの間で戦われた戦闘

  文久2年8月、生麦村(現・横浜市鶴見区)で島津久光の行列に

騎馬で入ってきたイギリス人3人を薩摩藩士が殺傷した。

イギリスはその事件の解決と補償を求め軍艦7隻を鹿児島湾に入港させ

交渉したが、不調。イギリスの艦隊が薩摩藩船を捕獲したのをきっかけに、

戦闘状態に入った。そのため鹿児島市街は焼失。イギリス側も損害大。

※「日課心覚 熊田清六」この時期のんびりとした日々を過ごしています。

 ・北野天満宮参詣 ・生田にて乗馬 ・味泥川巡見 ・木刀借り手合わせ

説明図・ウィキペディア

岡城址19年秋50
中川家三代神号を受ける 攘夷決行 岡藩の動き

文久三年(1863年)癸亥   久昭公 御年四十四歳

一、(5月)十二日、此度吉田家へ仰セ入ラレ、

去ル三月三日、荘嶽明神御神位御贈進、

松径院様、碧雲寺様御神号ヲ授ケ、

御霊璽御勧請相済、御木像日野淡路守守護シ奉り、

今日御宮へ御到着、

御神位御神号左ノ通

   荘嶽(ミタケ)大明神 荘嶽明神御神位 (清秀公)  

   心嶽(ムネタケ)明神 松径院様        (秀政公)

   宗鑑(ミカヾミ)明神 碧雲寺様    (秀成公)

一、六月十日・十一日両日、右御遷座ノ御式コレアリ

※吉田家 全国の神社の総支配役の公家

※日野淡路守  城原神社の神主

※攘夷決行についての事件

420日 将軍家茂、攘夷決行期日を

510日とする旨を孝明天皇に奏上。

510日 長州藩、下関海峡のアメリカ商船を砲撃。

23日フランス軍艦、26日オランダ軍艦にも砲撃。

6月1日、5日 アメリカ、フランスに報復攻撃を受け、

上陸した外国人によって村も焼き払われた。

※岡藩の攘夷決行についての動き

「文久3年夏 摂州御固場 出張被仰付候節 

日課心覚  熊田清六」によれば

  4月11日に摂州御固場出張を命じられて、

5月17日、岡藩藩兵、七里馬場を出発

摂津御固め図のコピー
岡藩 摂津の海岸(神戸市)防備  攘夷決行の備え

文久三年(1863年)癸亥   久昭公 御年四十四歳

一、(3月)晦日、摂津湊川辺ヨリ武庫川迄御固メ仰セ蒙ラル、

御書附左ノ通

           中川修理大夫

    摂州湊川辺ヨリ武庫川迄御固被仰付候間、

守衛向厳重可被相心得候、

尤場所之儀者於彼地割渡可申候、

松平三河守・亀井隠岐守も同様被仰付候間、

申合可被相勤候、

且又摂州・播州境川より湊川辺迄之御固、

酒井若狭守江被仰付候間、為心得相達置候

一、四月二十四日、先般竜顔御拝天盃御頂戴ノ処、

御当家初テノ御儀ニ付、御内祝コレアリ

一、五月二日、江戸ニ於テ端午御献上例ノ如シ、御使者 姓名詳ナラス

※松平三河守 斉民( なりたみ)美作国津山藩8代藩主

               11代将軍・家斉の15

※亀井隠岐守茲監(これみ)石見津和野藩の11

※酒井若狭守忠義(ただあき)若狭小浜藩の12代藩主

※竜顔御拝  天皇に目通りが許された

※摂州(兵庫)神戸村の湊川辺りから武庫川まで防衛を命じるので

 厳重に防備するように。もっとも、細かな場所の設定は現地で

 一緒に防備に当たる松平三河守・亀井隠岐守とよく相談して

 決めなさい。且つまた、摂州と播州の境川から湊川辺りまでの

 防備は酒井若狭守に申し付けているので、よく連携を取りなさい。

※岡藩の守備範囲は、現在の神戸市の中心地、神戸港、神戸駅、

 湊川神社のある海岸線でした。

 当時は、神戸村、脇浜村、岩屋村といった漁村だったようです。

※「文久3年夏 摂州御固場 出張被仰付候節 

日課心覚  熊田清六」という当時の記録が残っています。

岡城址19年秋49
朝廷がトップに 勅書 幕府が頂き 大名に 

文久三年(1863年)癸亥   久昭公 御年四十四歳

一、(2月)十九日、左ノ勅書、松平阿波守様ヨリ御渡コレアリ

  一、神宮御警衛兼テ藤堂江茂被仰渡有之候得共、

    宗廟之事故攘夷御治定ニおゐてハ、

一際御手当之謀略被聞食度事                      

  一、隠岐・対馬の如き皇国地勢ヲ離れ候箇所ニ、

隣国者勿論互ニ合防禦之手当、聞食度事

一、二十五日、京都御発駕

一、 晦 日、御前様此度御在所へ御引越トシテ、

江戸御発輿、四月十三日、岡城御着

一、三月八日、岡城御着

※松平阿波守 阿波国徳島藩13代藩主・蜂須賀斉裕(なりひろ)。

       11代将軍家斉の22男 妻は鷹司政通の娘標子

※勅書を幕府が受けて、諸大名に渡すようになっています。

※伊勢神宮の警衛はかねてから藤堂家へも仰せつけられていたが

 天皇家の先祖を祠ところだから、攘夷の決定について

 すべての防御の方策をご報告すること。

※隠岐、対馬のように皇国の遠隔地は、隣藩は勿論、

他の藩も援助することを、天皇にご報告すること。

※3月4日、将軍家茂、二条城に入る

3代家光以来230年ぶりの将軍上洛。

3月11日、孝明天皇、賀茂社に行幸し攘夷を祈願。

      将軍家茂が御供として随行しています。

 この二つの行事で、久昭公の行動記載がありません。

※この二つの言葉の読み方、解釈に困っています。

被聞食度事 きこしめされたきこと

聞食度事 きこしめしたきこと

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