2019年12月

岡城址19年秋25
久昭公 倹約と同時に人の情を説く

文久二年(1862年)壬戌  久昭公 御年四十三歳

一、十月 朔日 御意コレアリ、御書附左ノ通 (その4)

 一、文武修業之儀、年若之者共別而不可有懈怠、

武家隋弱之風俗我雑放蕩、深可戒事ニ候条、

何卒質直淳厚、礼譲を守、長幼之序明ニ有之度、

其父兄たるもの常々懇ニ可申教候

 一、連年勝手差支、四民扶助不行届、意外之事ニ候、

就而者質素倹約之儀度々申示候事ニ付、

此度別ニ不及沙汰候得共、此上精々省略勿論之事ニ候、

乍併一張一弛無之候而者、却而人情にもとり不宜候、

分限ニ応し、折ニ触れ、遊散人心鬱閉不致候様

   有之度候

※学問、武術を学ぶこと、特に若者は疎かにしてはならない。

   武士が脆弱になり、遊び惚けることは深く戒めるべき

ことである。率先して素直で、情に厚く礼儀を守り、

長幼の序のけじめをつけることを、その父兄は日頃から

懇(ねんごろ)に教えておくべきである。

※毎年会計に赤字が出て、領民の扶助が行き届かず、心苦しい

   限りである。なおもって、質素倹約を度々申し付けているが

   此度はとくに質素倹約を言わないけれども、これからも無駄を

   省くことは勿論である。

   しかしながら、一張一弛(いっちょういっし)時には働き、

   時には休むことが無いのは却って、人としての理に逆らい

   よろしくない。

   その者の身分に応じて、時にはなぐさみをして憂さを晴らし、

   鬱屈した気持ちにならないようにしたいものである。


岡城址19年秋24
久昭公 軍備の充実を説く

文久二年(1862年)壬戌  久昭公 御年四十三歳

一、十月 朔日 御意コレアリ、御書附左ノ通 (その3)

 一、軍備之儀、近年改革申渡置候処、未全備不致、

治世之弊風兎角是非之論、

何れも現業実検無之事ニ候得共、

真之得失利害容易難定、

此度其筋より申出之通、及下知置候、

器械製造賦役等財用ニ拘り候儀、

勝手掛不任心底儀も可有之、

此上家老始武備掛之者、

互ニ無腹蔵、惣而形容を省キ、

真実現業ニ不差支様、精を入れ申談し、

国力相応之備相立候様可致候、

猶又頭与其手々々の組士足軽等、

常々親しミ厚く調練無怠、

惣而非常之節応下知、不覚之儀無之様、

心掛専要ニ候

※軍備は、近年改革を申し渡しているところだが、いまだ整って

いない。政治が悪いと論じがちだが、すべてが初めてのこと

だから、本当に正しいかどうかは判定が難しい。

   此度、その筋より申し出があった通り、指示をした。

   機械製造の仕事は費用が必要なので、会計係にばかりに

任せられない状況にある。

   このような事情なので、家老をはじめ武具係の者は、互いに

腹蔵なく、形式にとらわれず、現場が困らないように話し合い

をして、岡藩相応の軍備を備えてもらいたい。

   尚また、指揮をする頭たつ者をはじめ、その部下、足軽に至る

まで常日頃から信頼を深め訓練を怠らず、いざという時には

不覚を取らないよう心がけるように。

※この時期、軍備は尊王攘夷、佐幕、開国派に意見の違いはありません。

岡城址19年秋23
久昭公 勤皇討幕をたしなめる 藩内に意見書

文久二年(1862年)壬戌  久昭公 御年四十三歳

一、十月 朔日 御意コレアリ、御書附左ノ通 (その2)

 一、近年世上不穏中、其時勢憤慨之士勤王を名として、

妄動之族も有之趣、勤王者 皇国之生霊誰ニても同様、

無勿体も奉対 天朝、不臣之心底断然可有儀ニ無之候得共、

銘々身之分限ニ応し、勤王之処分有之事ニ候、

猶 幕府二百五十年之御徳沢、毛頭忘却仕間敷、

且 公武益合体之御時節、聊心得違有之間敷、

惣而進退我等下知を可相待候、

留守中之儀者月番之家老差図ニ可任候、

向後方一心得違、 忘(ママ妄か?)動之族も候ハヽ、

   吃度可申付候、兼而覚悟可有之候

※近頃、世の中が騒動しく、その時勢を憤慨して、勤皇の名をかたり

 軽挙妄動する者どもがあるようだが、勤皇は皇国・日本に生まれた

 者はもったいなくも朝廷に対して誰も尊敬しない者はいない。

 それぞれ、身分に応じて勤皇の働きをすべきである。

 なお、幕府250年間の恩も忘れられない。

 そしてまた、公武合体のこの時節にいささかも心得違いをしない

よう、自分(久昭公)の指示を待つように。

(久昭公が)岡を離れ留守中は月番家老の指図に任せている。

今後、心得違いをして妄動する者達には厳重に申し付けておく。

 前々から、このことは考えていた事である。

※妄動之族も有之趣 軽挙妄動(けいきょもうどう)の族(やから)

もあるようだが・・  

小河弥右衛門(一敏)などの行動を指していると思われます。

岡藩の小河弥右衛門ら20名ほども、島津久光の上京に

呼応して討幕運動に参加しようとしていました。

文久2年(1862年)4月16日、島津久光が公武周旋のため京都に入る。

  4月23日、寺田屋事件・久光の帰藩命令に背いた薩摩藩過激尊攘派

有馬新七らが上意打ちで斬殺される。

  小河一敏などは有馬達と合流して討幕の先鞭を付けようとしていた

ようですが、この事件で中止に追い込まれます。

岡城址19年秋22
将軍家茂 来年2月上洛発表 久昭公 病気で江戸参府延期

文久二年(1862年)壬戌  久昭公 御年四十三歳

一、九月 二日、重陽御献上例ノ如シ、御使者 姓名詳ナラス

一、   七日、公方様来二月御上洛遊ハサルヘキ旨仰セ出サル

一、 二十七日、召サセラルヽニ付、六、七日ノ御支度ニテ

御発駕遊ハサルヘキ処、御持病ノ御疝積、

且御風邪ニテ、御参府御延引ノ御届書差出サル

一、十月 朔日、御発駕前納ノ式日御礼受サセラルヽノ後、

御家老御城代安威左門一同御居間書院へ召出サレ、

此度御参府ニ付、思召ノ儀コレアリ、

委細御自筆御書附ヲ以テ仰セ渡サルヽ旨

御意コレアリ、御書附左ノ通

   我等事、此度蒙台命、近々可致出立候処、

留守中之儀深令案労候、当年者久々ニ而在城、

士庶一統へ寛々相親しミ、我等心事得与申諭し、

下情をも委敷承、上下親睦、国体一新候様可及

   指揮与楽しミ帰国致し候処、春来世上不穏、且膝下ニも意外之儀有之、

旁未行届候中、不斗此度之蒙台命、存意を不果、早々出立遺憾不少候、

御用之品ニ寄、暫滞府可致義も難斗、千一左も候得者、別而之義、

家老始重役共厚く申談上仁下義、廉恥之風相立候様所冀ニ候

※公方様   将軍家茂                

※岡藩に帰っている久昭公にも、江戸参府の指示があったけれども、

   持病の疝積(せんしゃく)と風邪で日延べの届を出す。

※御意コレアリ 久昭公の岡藩へのあつい思いが感じられます。  

※国体一新   岡藩の体制を新しく築き上げたい

※幕府としては、全国の大名を江戸に参集し、諸大名の見送りの儀式を

して将軍を上洛させたかったと思われます。

岡城址19年秋21
文久の改革 参勤交代3年に1回 江戸在府100日 

文久二年(1862年)壬戌  久昭公 御年四十三歳

一、(8月)二十三日、御用番水野和泉守様ヨリ御渡御口達書

  今般被仰出之趣も有之ニ付、参勤御暇之割可被成下旨被仰出候、

  就而者在府中時々登城致し、御政務筋之理非得失を始、

存付候儀も有之候ハヽ、十分被申立、且国郡政治之可否、

海陸備禦等之籌策等相伺、或者可申達、

又者諸大名互ニ談合候様可被致候、

尤右件、御直々 御尋も可有之事

 一、在府人数割合之通被 仰出候得共、

   御暇中たりとも前條之事件、或者不得止事所用有之、

出府之儀者不苦候事

 一、嫡子之分者、参府在国在邑共勝手次第之事

 一、定府之面々在所江相越候儀、願次第御暇可被下、

尤諸御役当之儀者、在府割合を以可被仰付候事

 一、此表江差置候妻子之儀者、国邑江引取候とも勝手次第可被致候、

子共輩形勢見知之ため在府為致候儀、是又可為勝手次第事

 一、此表屋敷之儀、留守中家来共多人数不及差置、

参府中旅宿陣屋等之心得ニ而可成丈手軽ニ可被致、

且軍備之外総而無用之調度相省、家来共之儀者供先使者勤共、

旅装束之侭罷在不苦候事

 一、国許在所より懸隔場所御警衛之儀ニ付而者、

追而被 仰出候品も可有之事

 一、年始・八朔御太刀馬代、参勤・家督其外御礼事ニ付而之献上物者、

   是迄之通たるへく侯、乍去手数相懸り候品者、品替相願不苦候事

 一、右之外献上物者惣而 御免被成候、

尤格別之御由緒有之献上仕来候分者、相伺候様可被致候事

   参勤割合  当戌年     中川修理大夫

                 九鬼長門守

         秋中在府    市橋壱岐守

                 土方聟千代

                 京極壱岐守  余ハ略ス

     右之割合ヲ以、在府之儀ハ三年目毎ニ大約百日ヲ限り可申事

※文久の改革 

諸藩の軍備増強と全国の海岸警備強化をするために、

文久2年(1862年)8月に参勤交代制度を3年に1回、江戸在府を

おおむね100日、大名の在国中は江戸屋敷の家来を減らす。

また、大名の嫡子・妻子、家来の妻子の帰国についても勝手次第

として幕府役人の許可を不必要とした。

参勤交代と妻子を江戸に留め置く人質政策を、一気に弛めて

しまったことは、幕府の存在を問われることになって行きます。

※江戸住まいしか知らない大名の妻子、嫡子は国元に帰ってもよい、

  と言われても、どのくらいの人数が帰ったでしょうか?

 

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