2019年10月

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天保十一年(
1840年)庚子  久教公 御年四十一歳

一、   日闕 江戸愛宕社へ兼テ御寄附ノ本尊三幅並

大般若経六百巻御修覆

一、六月 朔日、御容体追々重ラセラルゝニ付、

細川越中守様御医師田中元勝御招トシテ、

御使者里見織之允熊本へ遣ハサル

一、  十一日、熊本御医師田中元勝病気ニ付、

右代り黄玄朴岡着、

然ル処、御容体御不出来ニ付、

即刻診コレ有様御使者遣ハサル、

夕申半刻、玄朴登城御病床へ罷出ルノ処、

休息ノ間モナク診罷出太儀ノ段御意アリ、

診仰セ付ラレ御薬御所望ノ処、

明朝得クト拝診ノ上、御医師衆相談仕、

御請仕ヘキ旨御辞退申上ル

※江戸愛宕社  標高26メートルの愛宕山の山頂にある神社。

1603年、慶長8年、徳川家康が防火の神様として祀りました。

※細川越中守様 熊本藩細川家11代藩主細川斉護(なりもり)。

※黄玄朴    黄家、細川藩の御殿医。その後、黄玄朴の家名を、

当時の弟子で現御船町出身の柴田朴民が受け、その後今日

まで代々引き継がれ、熊本市新町に黄医院があるようです。

※余談 蘭方医・伊東玄朴(げんぼく)、寛政12年(1801年)

明治4年(1871年)とは関係ないようです。

※即刻診匕 岡に着いた玄朴が休む間もなく、久教公の容態が悪い

ので、診察をしてほしいとの、お使いが宿舎に出された。

※診匕(しんひ) 診察と匕(さじ)。診察と調剤。

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天保十一年(
1840年)庚子  久教公 御年四十一歳

一、(4月)二十三日、御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラル、

御拝領例ノ如シ

一、 二十七日、江戸御発駕

一、五月 二日、端午御献上例ノ如シ

一、  十二日、伏見御着、山崎御通行、

十五日、室御着、

十六日、同所御乗船、

二十三日、三佐御着、

二十五日、御帰城

一、 二十七日、江戸御発駕前ヨリ

御脚気ノ御気味ニ而御不例ノ処、

室御着頃ハ一旦御快然遊ハサレ、

又々御船中御中頃ヨリ御再発ニ付、

大島桂斎へ拝診仰セ付ラレ、御薬差上ル、

然ルニ御大病ノ御仕出ニ付、

今日ヨリ御医師宿番仰セ付ラル

※御脚気ノ御気味  脚気(かっけ)の症状で・・。

    ビタミンB1欠乏が原因で心不全と末梢神経障害を起こす病気。

    足のむくみ、しびれ起きることから脚気(足の病気)といわれた。

※余談 江戸時代、白米を食べるようになって都市部、とくに江戸で多く

脚気に罹ったため「江戸患い」と言われていました。

    殿様はとくに白米を食べていたので、罹患率が高かったようです。

    明治の終わりころまで、脚気は伝染病とか中毒説があったのですが、

    鈴木梅太郎が1910年(明治43年)米糠(ぬか)の有効性を発見

    現在のビタミンの概念を発表してから罹患率が徐々に下がりました。

    現在でも、偏食のため脚気になる人がいるようです。要注意!

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天保十一年(
1840年)庚子  久教公 御年四十一歳

一、正月 二日、年始御献上・御拝領例ノ如シ

一、   三日、御献上例ノ如シ

一、   十日、公方様上野御参詣ニ付、

朝卯刻ヨリ御番所へ御詰

一、二月 朔日、御台様薨御ニ付、

御中陰御献上氷砂糖一壷、

        右大将様ヱ右同

一、  十六日、御中陰二度目御献上、

右大将様へ葛粉一箱

一、  二十日、浄観院様御中陰御法事ニ付、

御香奠御献上白銀一枚

一、三月 七日、当夏参向ノ公家衆御馳走御控仰セ蒙ラル

一、四月 七日、右大将様御痘瘡御快然

御祝儀御献上一種千匹

        右大将様へ右同

一、  十三日、東宮使参向延引ニ付、

御馳走御控御免仰セ蒙ラル

※公方様上野御参詣 将軍家慶 上野寛永寺歴代将軍墓所に参詣

※朝卯刻ヨリ御番所 朝5時より久教公が担当の神田橋御門に

          詰めて、将軍が江戸城から出る際の警備を

勤める役目です。

※御台様薨御(こうぎょ) 将軍家慶の正室喬子女王(たかこじょおう) 

             院号は、浄観院(じょうかんいん)

※右大将様   12代将軍家慶の4男・家定 後の13代将軍。

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天保十年(
1839年)己亥  久教公 御年四十歳

一、七月 六日、右御病気未タ御勝兼ニ付、

御快方次第早速御発駕ノ旨御届差出サル、

一、九月 二日、重陽御献上例ノ如シ

一、 二十四日、右御病気追々御快方ニ付、

押而今日御発駕ノ旨御届差出ル

一、   同日、岡城御発駕、

二十九日、三佐御乗船

一、十月十四日、室ヨリ御揚陸、山崎御通行、

十八日、伏見御着 

一、十一月三日、江戸御着

一、  十五日、御参勤ノ御礼仰セ上ラル、御献上例ノ如シ

一、十二月二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

一、 二十八日、神田橋御門御番仰セ蒙ラル、御相役加藤遠江守様

1016日 山崎街道 郡山宿・椿の本陣宿帳の記録

前夕関札紙 宿割共御出/

宿泊の前日15日夕刻、関札「10月16日中川修理太夫宿」を

  持って、御供の宿割り担当の家臣が来られた。

参一、中川修理大夫様 御泊 中二・下一/

  宿泊者は上1人・中川修理大夫様、中・2名、下・1名

金弐両 梅林寺江〆弐朱被下相渡ス 

  宿泊費20万円、清秀公の菩提寺梅林寺に〆て1万円渡された。

 余談 ①本陣以外、他の宿の宿泊者に夕食33人分、朝食の記録がありません。

     宿泊費1人190文です。1文≒25円  約4750円

②宿割り担当の家来に酒を5合出しています。

     人数はほかの年の例から推測して4人でしょうか。

    ③御供36人は支払いの記録で分かります、さて総人数は?

11、近戸口
天保十年(
1839年)己亥  久教公 御年四十歳

一、四月 七日、御先格ノ通、

御供例(ママ)御召列ノ旨御届差出サル

一、  十八日、老職中川多門広正死去

一、 二十二日、新御朱印岡着

一、五月 朔日、大御所様・大御台様、西丸へ御移徏ニ付、

御祝儀御献 上鯣一箱宛

一、   二日、端午御献上例ノ如シ

一、   七日、右御病気御勝兼ニ付、

御快方次第御発駕ノ旨御届差出サル

一、 二十五日、多門男子コレ無キニ付、

跡式相続下村九郎左衛門へ仰セ付ラル

一、六月十三日、暑中御献上例ノ如シ

※大御所様・大御台様  先の11代将軍家斉とその正室

※移徏(いちょく) 徒でなく ⇒   移ることの丁寧語

※御先格ノ通・・。 幕府から行列の御供数等を減らし経費の削減を

するようお達しがあったのですが、家の格を下げ

るようなことはできなかったようです。

※老職中川多門広正 中川(古田)頼母広長の嫡子 1150石

          「広」は古田家に代々受け継がれた字です。

※跡式相続・下村九郎左衛門  古田本家を継ぐ  1150石

先祖が久貞公の時代の老職中川(古田)藤四郎広倫の次男 

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