2019年07月

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久教公 将軍家斉の実母の忌に椎茸を献上

文化十四(1817年)年丁丑  久教公 御年十八歳

一、三月 朔日、岡城御発駕、

三日、三佐御乗船、

十日、室ヨリ御揚陸、山崎御通行、

十五日、伏見御着、

晦日、江戸御着

一、四月十三日、御参勤御礼仰セ上ラル、

御献上御太刀馬代黄金十両・縮緬五巻、

        右大将様へ御太刀馬代黄金十両

        御台様へ白銀三枚

        御簾中様へ右同

一、五月 三日、端午御献上例ノ如シ

一、  十三日、去ル八日一橋大納言治済卿御簾中様 

公方様御実母茲徳院ト称ス 御卒去ニ付、御献上

        公方様へ氷砂糖一壷

        右大将様へ右同

一、 二十七日、右御朦中二度目御献上椎茸一箱

※椎茸(しいたけ)の献上で一番古い年は次の通りです。

宝永元年(1704) 久通公 御年42歳

5月3日、御法事中、御献上椎茸一箱

※一揆四変 一揆の目標を破壊 町内の自衛を図る(党民流説)

彼城下騒動の比は、三佐、今市をも破却セんなど唱ふるよしなれハ

物頭の面々出張し、或は吏人を回して撫諭(ぶゆ)し今市(岡より六

里駅なり)三佐(岡より十三里、海浜の邑也)をあやぶミける所の人

民も大に愁ひ家財をうつして他所にかくしなど寝食をも安くせず。

城下#今市、三佐等の御物会所、製産会所及志賀、浅倉が宅等町内

の人夫に命じて壌(こわ)チ去ル。 


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久教公 岡藩領地 南部視察

文化十四(1817年)年丁丑  久教公 御年十八歳

一、正月 二日、年始御献上例ノ如シ、御使者長谷川武右衛門祐或

一、   八日、御舎弟孝之助様江戸ニ於テ御逝去、御年三歳、

麻布大泉寺ニ葬り奉ル、

御法号梅拳院殿陽岳還春禅童子、久貴公御五男、

御母ハ御侍女佐柄木氏、

文化十二年乙亥九月四日、御誕生

一、二月 四日、御郡廻トシテ御発駕、

宇田枝御泊、(豊後大野市清川)

五日、酒利、(佐伯市宇目町酒利)

六日、同所御滞留、

七日、重岡、(佐伯市重岡)

八日、木浦、(佐伯市宇目町木浦)

九日、宇田枝、

十日、御帰城

一、二十四日、御家督済セラレ、初テ中川主馬久質宅へ御入

※藩主の郡廻りは、宿泊所、休憩所、さらには案内、道筋の掃除等農民

 にとって非常に負担であった。御休憩所は先ず外囲をなし、内部に青松

その他の庭木を四、五本植え、その上位に駕籠置き場所を設け、その脇

に茶具の置き場を作り、一隅に雪隠(せっちん)を設ける。(宇目町誌)

※雪隠(せっちん) トイレ

※中川主馬久質  中川求馬久照嫡子 3千石

※一揆四変  領民救済のため 銭を貸与  (党民流説)

十二月十六日 領内一統 大庄屋 小庄屋 頭百姓

      # 惣百姓代 一村より壱人宛 彼所へ呼出し

一 銭九百九拾七貫四拾目 在中 為御救我為拝借候

一 同弐百貫目 御城下市中へ右同断

 斯のごとく命セられければ皆々難有 旨を申して引退 

是より郷中穏かにしづまりける 

〇一貫(文)≒7000円(推定) 千貫≒700万円


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久教公の家督相続のお祝い 家臣全員に料理

文化十三年(1816年)丙子  久教公 御年十七歳

一、九月 二日、重陽御献上御小袖二、

        右大将様へ右同

一、 二十一日、御家督初ニ付、日光御宮へ御献上御太刀馬代銀1枚、

        御使者松本九左衛門昭武

一、十月十四日・十五日・十六日・十七日、御家督御祝儀トシテ、

        御家中へ御料理下サル

一、  十八日、八月二十三日御損毛御届差出サル、

高三万八千四百七十三石

一、十一月二十一日、寒中御献上例ノ如シ

一、十二月十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※御家中へ御料理 この頃の御家中(家臣)は、4千石1人から

40俵4人扶持2人まで333名です。

  この中には家臣の家臣は入っていません。

  千石の家老職の家には10人以上の家臣がいたと思われます。

※1石=10斗  1俵=3斗  1人扶持=6俵  1斗=10升

※一揆四変 取り計らいを期待して 受け書を出す(党民流説)

  右之受書として

 郷中 御百姓とも 近年新規の御仕法ニ付而 一統及難渋 

乍恐(おそれながら)小前壱人別 御城下え罷出奉願候処 

新法之義は 被為差止被下候様  

古格御定法之義は 被為改候儀難成 

將又 拝借之儀も 追而は被為叶被下候段 被仰渡 

御書付之趣 難有事存候  向後 神妙ニ相心得 

決而取騒キ申間敷候 為其 小前人別 御受 印形仕候 以上

      十二月 庄屋 頭首姓 小前 人別名前 受印

 

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台風被害甚大  植木地区庄屋の裏山から大砲を撃つ

文化十三年(1816年)丙子  久教公 御年十七歳

一、二十八日、暑中御献上葛粉一箱、

       右大将様へ右同

一、七月六日、御在着御礼、御使者吉岡新左衛門直養差上ラル、

御献上二種一荷、

       右大将様へ右同

一、八月朔日、御献上御太刀馬代銀一枚、御使者吉田八郎兵衛尚信

       右大将様へ右同

一、二十三日、岡大風雨、御城下#ニ郷中所々破損、

九月十三日、御届差出サル

一、閏八月二日・三日・十八日、植木ニ於テ荻野流砲術矢玉仕掛#

       打前、御自身ニ御試 以後度々出丁アレトモ、是ヲ略ス

※岡大風雨の損失 高3万8千4百73石

※植木ニ於テ荻野流砲術  植木地区の庄屋さんの裏山から向かい

側の山に向かって撃ったとのこと、御子孫が語っています。

※一揆四変 藩も苦しい・・、しかし、何とか・・。(党民流説)

一 拝借之義は上ニも是迄 段々 御物入も有之 

此節も御損失多 下方ニ而存候様之義は 取計難行届候得とも

  御調達を以 少々之儀は取計可遺候間

 銘々致安堵 決而 取騒ふ(不)申 神妙に致し 

御年貢上納 農業之義は ふ(不)怠 取続方精出 可申候 

以上

       十二月

※藩も物価高で物入りも多く、毎年の災害で損失も多いい。

 しかし、百姓の苦しさを見ると、少しくらいは金の工面を

 しないといけない・・。


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久教公 初めてお国入り 岡城に入る

文化十三年(1816年)丙子  久教公 御年十七歳

一、五月三日、端午御献上御帷子二

       右大将様へ右同

一、 十一日、美濃路御通行、高宮駅円正寺へ御立寄、

井伊左兵衛督様 御更名修理大夫様へ御対顔 

是ヨリ年々御上下ノ度毎御対顔アレドモ略ス

一、 十三日、伏見御着、御勤、十四日、京都御勤、

十六日、大坂御着、十七日、御勤、二十二日、室ヨリ御乗船、

二十九日、三佐御着、同所マテ御迎、御先手物頭二人、

鉄砲十五挺、弓十張、御長柄奉行一人、

長柄十本、組頭一人、御馬廻三人#御鷹

一、六月三日、初テ御着城

※井伊左兵衛督(さひょうえのかみ)井伊直亮(なおあき)

彦根藩14代藩主 久教公の兄、この年より

参勤交代のたびに兄弟が会っていたようです。

※久教公三佐御着 藩主が初めてお国入りする場合の陣立てが

         決められていたようです。

※一揆四変 一揆勢に約束の書付を示す (党民流説)

中川平右衛門下知有りて、百姓とも退散の上、随分相鎮り罷在べし

とて書付を示しける。

 其辞ニ日(いわく)郷中一統願筋、箇條之内 

第一 御物成方を始、新法之義は悉(ことごと)く相止候筈

 一 自昔有来候(昔から決められている)古法、御定法之義は 

改候事ふ(不)相成候(改めは相成らずにそうろう)

何(いずれ)ニも下方御厭(いとい)筋成立 取続方之義

心え及平右衛門及十郎左衛門内談、追々、江戸表えも言上 

取計可遣候(取り計らい致すべく候)


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