2019年07月

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久教公 参勤交代途中 頭痛発熱

文政元年(1818年)戊寅  久教公 御年十九歳

一、(5月)四日、年号改元

一、  十一日、伏見御着ノ処、今朝草津駅ヨリ御微熱、

御着座ノ砌悪寒、御頭痛御発熱、

十二日、大坂御着

一、  十四日、御不例ニ付、御滞座

一、  十六日、四日以上御滞座ノ節ハ日々御届コレアル

御振合ニ付、町御奉行彦坂和泉守紀芳様へ御届

一、  十八日、御熱気御同篇ノ内、昨今御不食ニ在セラルヽニ付、        

当所ノ医師へ診仰セ付ラレ度旨、

岡崎仲達 彦根ヨリ兼テ御医師附置レ度思召ニテ、

御上下ノ度々御供ニ罷越ヨリ申上、

笹井茂庵へ診仰セ付ラル

※彦坂和泉守紀芳 芳?旗本1200石、文化13年大坂町奉行 

※岡崎仲達   岡崎家は彦根藩医で、仲達は文人画家田能村竹田と

交友があったそうですが詳しいことは分かりません。

 仲達は寛政8年、刑死者の腑分け・観臓の記録『解體 記并圖』

 を兄弟で書き残した人だそうです。(彦根藩 解剖図『解體記并圖』

佐藤利英,樋口輝雄 日本歯科大学新潟生命歯学部 医の博物館)より                

※一揆五変 見事な対応をした2人 (党民流説)

乍然(さりながら)寺院より相願 檀家之者共え申論度との儀ニ而 

免許有之たる歟(や)と難計候、其儀ならば可也ニは候得とも、

畢竟 ふ(不)面白仕方ニ存候 いかゞ思召候哉(や)

 山手河原と申所ニ而、井上十郎左衛門、長尾助五郎と申仁(じん・人) 

取鎮被申候よし抜群の事と存候 長尾氏、大鎌を被引懸ながら百姓の願

をきゝ達、井上氏 大勢取巻候中ニ而弁舌を振ひ退散致させ候事、いつ

れも膽勇、信義可致称美事共ニ覚申候

〇それにしても、寺院の対応は不面目でしょう。

 それに比べて、井上、長尾という人は命を懸け、胆力・信義に

優れた対応したと思われます。


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久教公 自分の弟を仮養子にして 帰国の途に

文化十五年(1818年)戊寅  久教公 御年十九歳

一、正月 二日、年始御礼、御献上・御拝領例ノ如シ

一、   三日、御献上例ノ如シ

一、四月十九日、御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラル、御拝領例ノ如シ

一、  二十日、江戸御発駕、美濃路御通行、

御仮養子井伊掃部頭直亮様

        御舎弟勝之助様

一、五月 二日、端午御献上例ノ如シ

※井伊掃部頭直亮(なおあき)彦根藩14代藩主  井伊直弼の兄

※御舎弟勝之助 のち内藤政優(まさひろ)三河挙母藩5代藩主

※一揆五変  当事者でない寺院で鎮める・・筋違い (党民流説)

 然処(しかるところ)先(に)寺院を以(って)取鎮(とりしずめ)

候は 只々 穏便を主意として、百姓共は平日(ふだん)旦那寺之教化

を信仰いたし居候者ニ付、ケ様之急場(かようなきゅうば)に用立テ

候事、能差略(よきさりゃく)と見込、下知有之候歟(や)と存候、

 左候而(さそうろうて)は仕置方、役筋之面々 自分引受の場を

はづし他人を雇、間を合せ候様ニ相見 事軆いかゞ敷ものに御座候 

其上 其筋 寺院之働ニ而取り鎮候ヘハ無比類手柄之義故、

寺院は必(ず)上(藩)より之会釈(えしゃく)も いよいよ重く

相成下之気受ハ猶又宜敷(なおまたよろしく)益信服を相増可申

 役筋之心得ニは笑止なる手違と覚候

〇一揆の原因が藩の苛政にあるのに、その原因に目を向けず、

百姓が普段世話になっている寺院の僧侶に取り鎮めを頼むとは、

筋違いも甚だしい。と対応のまずさを指摘しています。

 

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三河の国 矢作橋 御普請手伝いを命ぜられる

文化十四(1817年)年丁丑  久教公 御年十八歳

一、十月十一日、御即位ニ付、京都へ御使者中川主馬久質

御献上 禁裏へ御太刀馬代銀十枚

            仙洞へ右同銀五枚

            中宮へ白銀三枚

一、  十五日、御即位済セラル、御祝儀御献上、

公方様へ一種金千匹、

        右大将様へ干鯛一箱

一、十一月十六日、参州矢作橋御普請御手伝仰セ蒙ラル、

御相役島津筑後守忠徹様

一、十二月二日、寒中御献上例ノ如シ

一、 二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※御即位 921日、仁孝天皇御即位

※参州矢作橋  三河の国・矢作橋(やはぎばし)愛知県岡崎市

   浮世絵で見ると東海道には珍しい、長く立派な木橋が掛かって

います。度々水害で流されたようです。日吉丸(のちの豊臣秀吉)

がこの橋の上で寝ていて、蜂須賀小六と出会った話は有名です。

※島津筑後守忠徹(ただゆき)日向佐土原藩10代藩主

※一揆五変  いろいろと風説広がる(党民流説)

俗評紙面壱通略写

 此節 竹田領 百姓騒動有之よし 追々風説承伝候 何分苦々しき

様子ニ御座候 最初 御城下近辺ニ相集候節 寺院取鎭可申旨下知有之

候由 遠方之儀 実否無覚束候ヘとも 愈(いよいよ)左様候得ば

ふ(不)審なる事に御座候 其子細は今度百姓騒動ハ家門の事などニ

而(て)は無之 全国政之義を申立候由 寺院の懸り合 可申筋

ふ(不)相聞候 たとへ初発 願望之趣意難分候とも 役方の面々は 

今度之企は 仕置筋の儀と申程の推察は可有之事ニ存候

〇全国政之義 これをどう読むか難しいところです。


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台風被害の補填に囲い籾を売却

文化十四(1817年)年丁丑  久教公 御年十八歳

一、(7月)二十三日、去ル酉年御達コレアル囲籾三千三百九十四石、

此米千六百九十七石、石高ニ応シ金子御拝借ノ処、

去秋御領分御半高余ノ御損毛ニ付、

夫食且破損所御手当取捌方ニ成サレ度旨、

当二月御伺ノ通御差図相済、

大坂御金蔵ニ御上納金六百七十八両三歩余

一、八月 朔日、御献上例ノ如シ

一、九月二十一日、仁孝天皇御即位

一、   同日、重陽御献上例ノ如シ 御忌中ニ付、是迄御延引、

※囲籾  宝暦3年(1753年)癸酉 久貞公 御年30

     429日、当秋より壱万石に付千俵宛籾囲置べき旨御達

(幕府は)去年の置籾のほかに、当秋より領地高1万石につき籾千俵の

割合で籾を貯蔵する「囲籾(かこいもみ)」を命じた。

白米は腐敗のおそれがあるため、籾で貯蔵する場合が多かったから囲籾

といわれている。(宇目町誌)

※一揆四変 入山公の廟鳴動、電光を発す・・。(党民流説)

廿三日(23日)、中川平右衛門 岡を発し江戸へ赴くべきよし(由)        

いひ伝ふ。明春、上下の落着(らくちゃく)いかならんと風説とりどり

なる処ニ、臼杵領党民の事起れり。

 中川家の先侯に入山公と申せるハ英豪の聞へ有しか、朽網山ニその廟        

あり、此比しきりに鳴動し、或ハ電光を発し、或は廟の扉、自らひらけ

たりなといひ伝ふ

〇臼杵領党民の事 文化8年1220日、臼杵領三重(豊後大野市)に

         端を発した一揆。岡藩の一揆が諸藩に波及します。

〇入山公 3代藩主久清公。大船山(朽網山)山腹に廟があります。

 △(余録)第16 由学館セミナー「入山公と大船山」

令和元年811日(日)8:30~出発  ○現地説明会

申込:電話番号 0974-63-4818(竹田市教育委員会文化財課)

 △バスの案内:大船山麓まで運行、1117日まで。


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この年も台風襲来 

文化十四(1817年)年丁丑  久教公 御年十八歳

一、六月 六日、先月廿九日 尾張中納言斉朝卿御簾中様 

公方様御嫡女 御卒去ニ付、御朦中御献上

        公方様へ砂糖漬一壷

        右大将様へ右同

        御台様へ右同

一、  十一日、暑中御献上例ノ如シ

一、七月 二日、岡大風雨

一、   三日、御舎弟忠之助様江戸ニ於テ御逝去、御年三歳、

麻布大泉寺ニ葬り奉ル、

御法号蓮台院殿荷法玄葉禅童子、久貴公御四男、

御母ハ御侍女佐柄木氏、

文化十二年乙亥九月四日、御誕生

※尾張中納言斉朝  尾張藩10代藩主・徳川斉朝(なりとも)

 公方様御嫡女 徳川斉朝の正室・将軍家斉の長女・淑姫(ひでひめ) 

※岡大風雨   被害は不明です。記録組織の緩みが出たのかも?

※一揆四変 近隣の諸藩 国境を固める (党民流説)

四隣の諸藩 此変乱におどろき(境)界を犯すこともやとあやぶ

(危)ミ、ひそかに意を用ひ又使者をも立らるゝよしなりしを、

岡藩より堅く辞せられてやみ(止)しとぞ。

府内は足軽百人を備へ、臼杵は人数四百五拾人を命せられしなど

かた(語)り伝ふ。

〇四隣の諸藩 東西南北の諸藩ということでしょうが、岡藩は日向

の延岡藩、肥後・熊本藩、豊後の府内藩(大分市)臼杵藩、佐伯藩、

豊後森藩、天領日田と境を接していたので、騒動が起きると百姓の

逃散が起きると警戒したものと思われます。

〇明暦2年(1656年)3代久清公の時代、「狐の肝事件」で各藩に

 千名単位の逃散があったと記録されています。

 

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