2019年06月

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久貴公の3男・栄之進 死去 3歳

文化十三年(1816)丙子  久貴公 御年三十歳

一、正月 七日、年始御献上御太刀馬代銀壱枚、

御使者里見三郎左衛門義正

        大納言様へ右同 是ヨリ後、年始御献上

並使者等年々御同様ニ付、此條略ス

一、二月二十日、御三男栄之進様御逝去 久教公御譜ニ委シ

一、四月 七日、公方様 右大臣 御転任、

御献上御太刀馬代銀壱枚

        大納言様へ右同

一、   同日、大納言様 右大将御兼任ニ付、御献上

        公方様へ御太刀馬代銀壱牧

        右大将様へ右同

一、九月 四日、徳川民部卿斉敦様御逝去ニ付、

御用番様マテ御伺御使者差出サル 

是ヨリ後、此類多ク載ス、

御隠居後ハ余ノ御動向ナキカ故ナリ

※栄之進様   文化11年(1814)5月誕生

※徳川民部卿斉敦(なりあつ)将軍家斉の弟 一橋徳川家3代当主

※一揆再変  願いの条々  (党民流説)

④ 一 庄屋頭取#大庄屋被差止

 是は領内66組に66人(原文のママ)の大庄屋あり、其中より頭取と

云ふを立置、一組ニ小庄屋3、4人宛あり、あまり役人多く、又段数あり

て種々身のためをはかり百姓の難渋に相なるを以て小庄屋ばかりにいたし

たきよし也。

(奉行)宗長兵衛是をきゝモれにてハふ(不)便利なるべし得と相考ミる

べし、よく諭しけれども口々に申さわぐ故ニ、然らば頭取を止メ一組ニ大

庄屋1人、小庄屋も1人にてしかるべしとありければ是ニ随ひたりとなり。

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久貴公 下屋敷へ転居  隼人正(はやとのしょう)と改名

文化十二年(1815)乙亥  久貴公 御年二十九歳

一、(4月)六日、御明細書差出サル

         本国常陸、

         生国武蔵

           養父中川修理大夫死俗名甲斐守

           実父於平尭山 俗名甲斐守

         中川修理大夫久貴

            亥三拾歳

     文化十二乙亥年九月五日隠居被 仰付候

一、  十五日、御隠居ノ御礼仰セ上ラル、

御名代九鬼和泉守様御登城、

        御献上御太刀馬代黄金拾両・紗綾五巻、

大納言様へ御太刀馬代黄金拾両

一、十一月十一日、八丁堀御下屋敷へ御引移 

 御前様・御姫様方ハ、御上屋敷御住居

一、十二月十二日、隼人正卜御更名御願ノ通仰セ蒙ラル

※御前様   久貴公の正室・満姫  

久貴公と離れ上屋敷に残ったことで、2人の仲が窺えます。

また、隠然たる勢力を持っていたことがわかります。

※一揆再変  願いの条々  (党民流説)

① 一 御物会所被差止(差し止められるように・止めること)

② 一 生産方被差止

    此生産方は乙津屋伊右衛門と云うか宅にて、此節打ヰベき事

    なりしが、一揆のものゝ内より年貢米を入置たるよしにて難

    をまぬ(免)がれたりと云ふ 

③ 一 塩問屋被差止

 

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久貴公 願いどおり隠居を命ぜられる 双子の男子誕生

文化十二年(1815)乙亥  久貴公 御年二十九歳

一、四月、  江戸ニ於テ御男子双子御誕生、

御名忠之助・孝之助卜称シ奉ル、

御母ハ御侍女佐柄木氏

一、  五日、御黒書院波ノ間ニ於テ御老中御列座、

御用番松平伊豆守様 ヨリ公御病気ニ付、

御願ノ通御隠居仰セ蒙ラル、

御名代九鬼和泉守様御登城

※男子双子  2人とも文化14年(1817)相前後して死亡

3男の栄之進も文化13年(1816)死亡

この3人を含めて5男、1女はすべて

侍女佐柄木氏が母親です。

※九鬼和泉守隆国  幕府の儀式、典礼や大名が将軍に拝謁する

段取りを取り扱う奏者番を勤めていました。

  中川家との縁は、九鬼家が水軍として活躍していた秀吉の時代に

中川家には柴山両賀を中心とした水軍が、九鬼水軍と伴に朝鮮軍

との海戦の戦功で、秀吉より褒賞されています。

※一揆再変  奉行・宗長兵衛等駆けつける (党民流説)

暮近き比、城下より奉行宗長兵衛、代官梶原茂右衛門、手代吉良利

右衛門等はせ着キ、大勢の中を押分押分役所に至り、出席して大音に

「先しバらくの内しづまるべし、申聞す事あり」となだめければ、

百姓ども口々に「座席高し、座を下りて此節の願、何事なりとも願立

遣すべしとの証文を渡されなば願の條々を申述べしと」云ふに

宗長兵衛心得たりとて座を下り、証文をしたゝむるに、百姓竹槍三十

本ばかりを顔にさしあて、組々に一紙を渡さるべしと云、望にまかせ 

証文を出すを、竹槍ニかけて受取、これより惣勢しつまりて、願望の

條々を申ける條数、四原の者の願ニ比すれば一倍に過タリとぞ。


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  久貴公 隠居願の控え

文化十二年(1815)乙亥  久貴公 御年二十九歳

隠居奉願候覚

  私儀、年来持病積気有之侯処、去ル申年在所江罷越候而茂

度々差発、脇腹拘痛仕、去ル酉年在所押而発足仕、参府後先

快方ニ罷在候処、又々再発仕頭痛眩暈強、其上痔疾差発痛強、

  歩行等茂難相成、甚難儀仕候、

右ニ付、河野良以・中川常春院薬服用仕、桂川甫周療治受、

杉本伸温江茂容体為見、当時河埜良以・桂川甫周薬相用、

無油断療養仕候得共、兎角同篇之内眩暈強気分差塞、

一躰難治之症ニ而、迚茂全快出勤可仕容体無御座候旨何茂申聞候、

未隠居可奉願年齢ニ者無御座候得共、右之容体ニ御座候得者、

長々引篭御奉公相勤不申儀、恐入奉存候、依之私隠居被仰付、

同氏悌之丞江家督被下置候様奉願侯、以上    御印判

文化十二乙亥年九月三日 中川修理大夫 御花押

    松平伊豆守殿   牧野備前守殿

    土井大炊頭殿   青山下野守殿

    酒井讃岐守殿  (紙面都合上、2段にしました)

※隠居を願い出る年ではないが、こんな病弱の身では(将軍への)奉公

 も出来ないので、私(久貴)に隠居を仰せつけられ、悌之丞(久通)

へ家督を下し置かれますようお願いいたします。

※一揆再変 砂丘のように道路にまき散らした塩 (党民流説) 

 次に塩間屋を破却す、これは近年新に建られたる家なるを悉く打砕

塩は道路に投出し引ちらしすして積雪のごとく、是が上を往来するに

砂浜を通るに似たり。夫より役所に群り入る。犬飼奉行河井専八、横目 

橋本兼右衛門以下皆立退たり門内にて、鉄炮を一声ひゞかせ年貢米を納ル

ためし升の矢倉を打砕、役所中に充満し罵り回る事おびたゞし、かゝる

騒動なりしかバ町中の男女、家財を持運び東西にいとみにげ迷ふ躰、火事

場のごとく役人など多くハ公館ニ引こもりもし、此中門を破り来らば命を

限りに防ぐべしと鉄炮打物を備へて堅メたり。


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久貴公 隠居願を出す

文化十二年(1815)乙亥  久貴公 御年二十九歳

一、五月 三日、端午御献上例ノ如シ

一、六月 朔日、若殿様初テ御目見

一、  十八日、暑中御献上例ノ如シ

一、 二十二日、若殿様五節句月次御登城御願済セラル

一、八月 朔日、御献上例ノ如シ、御病気ニ付、御使者中川外江三俊

一、九月 二日、重陽御献上例ノ如シ

一、   三日、御病身ニ付御隠居ナサレ度旨、

九鬼和泉守様ヲ以テ

御用番松平伊豆守様へ御願書差出サル

    隠居奉願候覚

   高七万四百四拾石余    居城豊後国岡

                    中川修理大夫

                      亥三拾歳

                養子  中川悌之丞

                      亥拾九歳

※若殿様初テ御目見 若殿(久通)将軍家斉に初めて御目見え

  岡藩主久貴公の後継者として正式に認定されたことになります。

※九鬼和泉守隆国(くきたかくに)摂津三田藩の10代藩主

※御用番松平伊豆守信明 月番老中 久貴公の正室満姫の養父

※養子・中川悌之丞 亥拾九歳 亥年19歳 3歳プラスですね。

※一揆再変 犬飼御物会所を打ち壊す(党民流説)

次に万歳屋彦兵衛宅を壊つ、これは町乙名にて御物受込の者なり。         

土歳をも打崩し衣類・諸品のこりなく破裂し、油 醤油を流しかけ、銀札、

帳面を水にひたし、其(の)暴乱いよいよ甚タしく、次ニ御物会所を打崩

す。是ハ米屋善三郎といへるが宅なりしを会所として諸品充満したるを、

官物の憚りもなく散々に打壊も塩蔵、煙草藏をも悉く破りて品々を踏あら

し井手を堰留めて屋敷を川の如くし、諸穀類たばこ等を打散すありさま、

実に目もあてられず。


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