
久貴公の3男・栄之進 死去 3歳
文化十三年(1816)丙子 久貴公 御年三十歳
一、正月 七日、年始御献上御太刀馬代銀壱枚、
御使者里見三郎左衛門義正
大納言様へ右同 是ヨリ後、年始御献上
並使者等年々御同様ニ付、此條略ス
一、二月二十日、御三男栄之進様御逝去 久教公御譜ニ委シ
一、四月 七日、公方様 右大臣 御転任、
御献上御太刀馬代銀壱枚
大納言様へ右同
一、 同日、大納言様 右大将御兼任ニ付、御献上
公方様へ御太刀馬代銀壱牧
右大将様へ右同
一、九月 四日、徳川民部卿斉敦様御逝去ニ付、
御用番様マテ御伺御使者差出サル
是ヨリ後、此類多ク載ス、
御隠居後ハ余ノ御動向ナキカ故ナリ
※栄之進様 文化11年(1814)5月誕生
※徳川民部卿斉敦(なりあつ)将軍家斉の弟 一橋徳川家3代当主
※一揆再変 願いの条々 (党民流説)
④ 一 庄屋頭取#大庄屋被差止
是は領内66組に66人(原文のママ)の大庄屋あり、其中より頭取と
云ふを立置、一組ニ小庄屋3、4人宛あり、あまり役人多く、又段数あり
て種々身のためをはかり百姓の難渋に相なるを以て小庄屋ばかりにいたし
たきよし也。
(奉行)宗長兵衛是をきゝモれにてハふ(不)便利なるべし得と相考ミる
べし、よく諭しけれども口々に申さわぐ故ニ、然らば頭取を止メ一組ニ大
庄屋1人、小庄屋も1人にてしかるべしとありければ是ニ随ひたりとなり。


