2019年05月

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久貴公に男子誕生

文化四年(1807)丁卯  久貴公 御年二十一歳

一、八月 朔日、御献上例ノ如シ

一、   九日、江戸ニ於テ御男子御誕生、

御名三千蔵卜称シ奉ル、

御母ハ御侍女佐柄木氏

一、   晦日、岡城西ノ方石垣二箇所、大手御門石垣一箇所

御修補御願済セラル

一、九月 二日、重陽御献上例ノ如シ

一、十月 十日、常憲院様百回御忌御取越御法事済、

上野御参詣ニ付、供奉御束帯御勤

一、  十一日、右御法事ニ付、御香奠御献上白銀弐枚

一、 二十五日、右御法事済セラル御祝儀トシテ、

御能コレアリ御見物、

紅葉ノ間ニ於テ御料理御頂戴

一、十二月十一日、寒中御献上例ノ如シ

一、 二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※三千蔵  久貴公の長男  虚弱体質だったようでようで、

              家督の継承はできませんでした。

※石垣の破損 岡城は山城に石垣を築き、すばらしい景観を見せて

       いますが、常に石垣の維持管理がたいへんです。

※常憲院様  5代将軍綱吉


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岡藩 大坂中の島に蔵屋敷を建てる

文化四年(1807)丁卯  久貴公 御年二十一歳

一、四月 五日、江戸地廻り御供御駕脇士四人、御徒士三人、

御跡箱一ツ相減、末々右ニ准シ、

暫クノ内 江戸市中御減少ナサレ度旨御届差出サル

一、  十一日、御参勤御礼仰セ上ラル、御献上例ノ如シ

一、五月 二日、端午御献上例ノ如シ

一、   九日、御上屋敷御普請成就、御移徏

一、六月十六日、嘉祥御菓子御頂戴

一、  十八日、暑中御献上例ノ如シ

一、七月二十二日、目黒御抱屋敷ニテ、毎年四月ヨリ七月迄、

御家中稽古鉄砲打セラレ度旨御伺済セラル

一、  日 闕 大坂上中ノ島町上田三郎兵衛屋敷ノ内、

御借地ニ相成、御倉御普請コレアリ、

上田蔵卜唱フ

※江戸地廻り  江戸市中を久貴公が用事で出回る時の供連れ

  江戸城に登城する場合や、参勤交代の際は禄高等により、

厳密に格式が厳密に定められていたようです。

※御供御駕脇士 久貴公の籠の両脇で護衛をする家来(侍)

※御徒士(かち)徒(かち)ではない。侍と足軽の間の階級。

※御跡箱(あとばこ) 挟み箱(はさみばこ)。外出をするとき、

着替え用の衣類や具足を入れ、中間に担がせた定紋付きの木箱

※御抱屋敷(かかえやしき) 岡藩が独自に購入した土地。

※蔵屋敷  岡藩の年貢米や特産品を納める蔵を持った屋敷

御借地ニ・・。岡藩としては、表向き商売はしていないことを

       あらわしているように思えます。

※享保9年(1724年)3月21日大坂堀江筋より出火、

岡藩大坂栴檀木御蔵屋敷類焼 米、豆1万5千俵消失


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久貴公 岡藩 北部の視察  江戸へ参勤

文化四年(1807)丁卯  久貴公 御年二十一歳

一、正月 二日、年始御献上例ノ如シ、

御使者細野七郎右衛門尚寛

一、二月 四日、朽網ヨリ井田筋御覧トシテ、

御出猟ノ形ニテ御発駕、岳麓寺御泊、

五日、湯原、

六日、伊小野、

七日、堤、

八日、佐代、

九日、犬山、

十日、市万田、

十一日、御帰城

一、 二十七日、岡城御発駕、

二十九日、三佐御乗船

一、三月 十日、室ヨリ御揚陸、

十四日、大坂御着、

十六日、伏見御着、御勤、

十七日、京都御勤、

晦日、江戸御着

※朽網(くたみ)郷  竹田市長湯町を中心に久住の一部を

           ふくむ地区  くじゅう山=朽網山

※朽網山 夕居る雲の 薄れゆかば 

我れは恋ひむな 君が目を欲り(万葉集)


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久貴公 岡藩と延岡藩の境界視察に出る 御客屋敷再建

文化三年(1806)丙寅  久貴公 御年二十歳

一、九月 二日、重陽御献上例ノ如シ

一、   七日、宇目筋 御堺目御覧トシテ御発駕、

中津留御泊、

八日、木浦、

九日、重岡、

十日、同所

一、   十日、浚明院様二十一回御忌御法事ニ付、

御香奠御献上白銀弐枚

一 、 十一日、酒利、

十二日、重岡、

十三日、小野市、

十四日、宇田枝、

十五日、同所、

十六日、御帰城

一、十一月十六日、寺町御客屋、寛政元年竹田町大火ノ節

類焼ノ処、御普請再成就

一、十二月二日、寒中御献上例ノ如シ

一、 二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※岡藩と隣の藩、肥後領、延岡領境目争い

 ① 岡藩領 久住有氏地区と肥後領久住と九重山境目

 ② 岡藩荻の陽目地区・倉小野と肥後領との境目

 ③ 岡藩宇目地区と延岡藩の境目

④ 岡藩領の今市組柳井水村と肥後領石合村の境目

※岡藩と肥後藩で土地の交換をしたところ

① 岡藩領内久住白丹地区と熊本領荷小野地区の交換

※元禄13年(1700年)延岡藩との山争いは込み入って、

     最終的には幕府の裁定に持ち込まれています。

     2018113日のブログを見てください。

 

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岡藩 上屋敷 文化の大火で被災

文化三年(1806)丙寅  久貴公 御年二十歳

一、正月二日、年始御礼、御献上・御拝領例ノ如シ

一、  三日、御献上例ノ如シ

一、三月四日、芝牛町ヨリ出火、西南ノ風強ク大火ニ及ヒ、

御上屋敷御類焼、八丁堀御下屋敷ニ御立退

一、四月朔日、御在所へノ御暇仰セ蒙ラル、御拝領例ノ如シ

一、  五日、江戸御発駕、

御仮養子水野日向守勝愛様 御舎弟太刀彦様、

  二十一日、伏見御着、

二十二日、大坂御着、

二十六日、室ヨリ御乗船

一、五月二日、端午御献上例ノ如シ

一、  五日、三佐御着、

七日、御帰城

一、六月七日、暑中御献上例ノ如シ

一、 十八日、御在着御礼、御使者森田権次郎守篤差上ラル、

御献上例ノ如シ

一、八月朔日、御献上例ノ如シ、御使者細野七郎右衛門尚寛

※芝牛町ヨリ出火、・・。 文化3年の大火 

  車町火事、牛町火事、ともいう。明暦の大火,目黒行人坂の大火

に次ぐ江戸三大火の一つ。

正午前、芝車(牛)町泉岳寺前から出火、西南の強風にあおられ、

大名小路、京橋、神田、浅草に延焼、翌5日昼前、早朝からの大雨で

ようやく鎮火した。町数530余町を全焼,死者は1000名を超えた。

※水野日向守勝愛(かつざね)岡藩8代藩主久貞公の孫 結城藩7代藩主

  父・水野勝剛(かつかた)は宝暦10年(1760年)、

豊後岡藩主・中川久貞の3男として江戸芝の藩邸で生まれる。

名は中川久徴。天明3年(1783年)、第5代結城藩主の水野勝起

の養嗣子として家督を継ぎ、結城藩6代藩主、従五位下、日向守に

叙位・任官する。寛政12年(1800年)、病気を理由に長男の勝愛に

家督を譲った。

 

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