2019年05月

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久貴公 参勤交代で木曽路

文化七年(1810)庚午  久貴公 御年二十四歳

一、四月十九日、御在所へノ御暇仰セ蒙ラル、御拝領例ノ如シ

一、 二十三日、江戸御発駕、木曽路御通行

一、五月 二日、端午御献上例ノ如シ

一、   七日、伏見御着、

八日、京都御勤、

十日、大坂御着、

十五日、室ヨリ御乗船、

二十二日、三佐御着、

二十四日、御帰城

一、 二十九日、去ル二十一日於ラク御方御卒去ニ付、

大納言様へ御朦中御献上氷砂糖一壷

※(参勤交代)木曽路御通行  中山道(なかせんどう)

   東海道は天候や増水による通行不能になる、大井川、

浜名、桑名の渡しなどがあり、日程が順調にゆかず、

経費が余分にかかったようです。

※於ラク御方  お楽のお方 香琳院(こうりんいん)

        12代将軍家慶の母

※大納言様   11代将軍家斉の次男・家慶。のち12代将軍。

※横山甚助の新法  (竹田市誌)

 ハ、塩問屋の設置  海浜に遠い岡領内で消費される塩の多くは、

自領の三任地方の製塩のほかは、大分郡・海部郡などの海岸から、

「振売(ふりうり)」(行商人)や専門業者が持ち込み、領内で自由に

販売されていた。

これを特定の問屋を設けて、一手に売買させようとする政策で、

問屋は藩 直営、もしくは指定商人に委嘱された。

需要の大きい塩は、専売品として、藩や指定商人の意のままに売買

されることになり、莫大な収益が上げられることを狙ったものである。

 

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伊能忠敬(ただたか)一行 岡藩領・三佐を測量

文化七年(1810)庚午  久貴公 御年二十四歳

一、正月 二日、年始御礼、御献上・御拝領例ノ如シ

一、   三日、御献上例ノ如シ

一、二月十三日、天文測量方伊能勘解由忠敬・坂部貞兵衛惟道、

御料原村ヨリ三佐へ罷越、測量コレアリ、

即日鶴崎へ罷越

一、 二十二日、老職隠居中川休翁久芳病死

一、三月二十五日、三千蔵様御丈夫御届、

追而御前様ニ御男子御出生ノ節ハ、

三千歳様ハ御次男ニナサルヘク、

依テ以後御在所へ御出立ノ砌、

御仮養子ナサレ間敷旨仰セ達セラル

※伊能勘解由忠敬 13日忠敬一行は府内(大分市)より津留村・

萩原村・原村・三川村・三佐村の測量を終えて鶴崎の宿舎に着く。

※中川休翁久芳 前名・中川求馬久敦 3千石

※三千蔵様・・。御前様(正室・満姫)ニ御男子御出生ノ節は

        三千蔵様を次男として処遇するように・・。

 この時点で、長男である三千蔵様の嫡男扱いはなくなりました。

文化4年(1807)久貴公御年21歳

8月9日、江戸に於て御男子御誕生、

御名三千蔵と称し奉る、御母は御侍女佐柄木氏

※横山甚助の新法  (緒方町誌)

御物会所では穀物類やたばこなど農村での生産品を、

製産会所では材木・薪炭などの生産品を、藩や特定の商人が独占的

に買い上げていた。農民が生産品を売る場合、この両会所以外での

販売は禁止され、安く買いたたかれてもどうすることも出来なかった。

 

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           記号らしき印

久貴公 婚礼の御礼あいさつに江戸城に登る

文化六年(1809)己巳  久貴公 御年二十三歳

一、十二月二日、大納言様御婚礼済セラル、御祝儀御献上

        公方様へ二種金五百匹

        大納言様へ右同

        御台様へ一種金五百匹

        御簾中様へ右同

一、   四日、寒中御献上例ノ如シ

一、  十五日、御婚礼ノ御礼仰セ上ラル、御献上紗綾三巻、

大納言様へ白銀三枚

一、 二十一日、歳暮御献上例ノ如シ、御簾中様へ白銀壱枚 

此節ヨリ始ル、以後端午、重陽御献上アリ

一、 二十六日、由学館へ来年始始業ノ節ヨリ献奠仰セ出サル

文化七年ヨリ御省略中相止

※大納言様 徳川家慶(いえよし)将軍家斉の次男 12代将軍

※公方様  将軍の一般的な呼び名。 御台様 将軍の正室の呼び名

※御簾中様 将軍の正室以外の妻の呼び名

※御婚礼ノ御礼仰セ上ラル (久貴公の)婚礼の御礼とあいさつ

※由学館  岡藩の藩校 輔仁堂(1726年)から由学館(1776年)

  献奠  授業料の代わりに・・。経営が苦しかったのでしょう。

※横山甚助の新法  (竹田市誌)

 ロ、製産会所の設置

  従前からのさまざまな領内産品のほか、新規産品の開発を勧め、

これらをすべてこの会所の管理下に置き、藩の収入の場とした。

いわゆる(岡藩の)国産品の開発と専売化である。

  それらの内には、漆器・元結(もとゆい)・筆・木炭・船舶用帆布・

ローソク、ゼンマイなど山菜・陽目(ひなため)海苔のり・絹織物

などの開発製造が掲げられたという。

 

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       何か訳がありそうな石垣の組み方

久貴公 御婚礼  三河吉田藩藩主の養女・満姫

文化六年(1809)己巳  久貴公 御年二十三歳

一、六月十一日、暑中御献上例ノ如シ

一、  十四日、大手組御防仰セ蒙ラル

       御相投  土屋保三郎英直様

            松平備後守利之様

            土岐山城守頼布棟

一、  十六日、喜(嘉)祥御菓子御頂戴

一、八月 朔日、御献上例ノ如シ

一、九月 二日、重陽御献上例ノ如シ

一、十一月九日、松平伊豆守様へ御結納進セラル、

御使者市浦範八郎弼

一、 二十三日、御婚礼、御前様御名満卜称シ奉ル

※大手組御防  江戸城の大手門で江戸城類焼防止と警備を兼ねた役目。

※満姫について

養父・松平伊豆守  松平信明(のぶあきら)、

三河吉田藩の第3代藩主。老中・老中首座。

実父・杉浦 正直(まさなお)寄合席旗本 8000石。

   松平信明の弟

※三河吉田藩は、8代藩主久貞公の出身地です。

※余談ながら 久貴公は、名門の松平家から迎えた満姫には

       頭が上がらなかったように思えます。

※横山甚助の新法・御物会所の影響   (朝地町史)

 農民の油絞りを禁じたため、一般は灯油や肥料にまでも欠乏し、

食用油すら自分たちが菜種をつくりながら、存分に使えず窮した。


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久貴公 七里田温泉に湯治

文化六年(1809)己巳  久貴公 御年二十三歳

一、正月 二日、年始御献上例ノ如シ、

御使者細野七郎右衛門尚寛

一、二月 朔日、七里田へ御湯治トシテ御発駕、

九日、御帰城

一、 二十八日、岡城御発駕、

晦日、三佐御乗船

一、三月 九日、室ヨリ御揚陸、

十四日、大坂御着、

十六日、伏見御着、

二十九日、江戸御着

一、四月十五日、御参勤御礼仰セ上ラル、御献上例ノ如シ

一、五月 三日、端午御献上例ノ如シ

※七里田へ御湯治  寛文3年(1663年)久清公が

朽網七里田温泉に御茶屋建を立て以来の湯治場です。

現在では日本無類の炭酸泉で有名です。

※横山甚助の新法  (竹田市誌)

イ、御物会所(おものかいしょ)の設置

  穀類・たばこ・菜種など、年貢納入ののち百姓の手元に残ったものは、

本来、自由に販売し、自分の収入となり、百姓には重要な再生産費と

なっていたが、この会所の開設によって、買い上げ場をこの会所を

窓口一か所に統合し、自由に売却することを出来なくした。


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