2019年04月

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久貴公 従5位下 修理大夫に任じられる

享和元年(1801)辛酉   久貴公 御年十五歳

一、(9月)二十二日、初テ上野御参詣、

御宮へ御太刀馬代銀壱枚、

総御霊屋へ白銀壱枚宛御供へ

一、 二十四日、初テ増上寺給御霊屋へ右同

一、十一月十一日、御半髪御袖留

一、十二月五日、寒中御献上例ノ如シ

一、  十六日、従五位下ニ叙シ、修理大夫ニ任セラル

一、 二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

一、 二十二日、御官位御礼仰セ上ラル、

御献上御太刀馬代黄金拾両、

        大納言様へ右同

※上野御参詣  東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)。

3代将軍徳川家光の創立。初代住職は天海。

この時代、4代将軍家綱、5代綱吉、8代吉宗、

10代家治の墓所がありました。

※(芝)増上寺(ぞうじょうじ) 徳川将軍家の菩提寺

この時代、2代将軍秀忠、6代将軍家宣、

7代将軍家継、9代将軍家重の墓所がありました。

※御半髪(はんぱつ)月代(さかやき)を剃った髪型

御袖留(そでとめ)若年者が着用する振袖の長い袖を短くする

     どちらも大人になった儀式。武士の元服の慣例。


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久貴公 将軍家斉に御目見え 家督相続者と認められる

享和元年(1801)辛酉   久貴公 御年十五歳

一、九月二日、重陽御献上例ノ如シ

一、 十二日、御登城ノ節、介副ノ者召列ラル旨、

御目附様へ御達差出サル

一、 十五日、将軍家斉公へ初テ御目見、

九鬼和泉守隆国様御同道御登城、

御献上御太刀馬代黄金拾両・紗綾五巻、

大納言様へ御太刀馬代黄金拾両

一、  同日、御幼少ヨリ御積気ニ在セラルヽニ付、

御防場へ御人数ハカリ差出サレ度旨御届差出サル

一、 二十日、五節句並月次御登城御願済セラル

※重陽御献上 5節句の1つ、9月9日菊の節句のお祝い献上

※介副ノ者  介添えの者 久貴公が若年のため、付き添いの者を

同道させたい、との許可を取ったのでしょう。

※御目見(おめみえ) 将軍に会って挨拶して、はじめて家督相続

の有資格者、家督相続人と認められたようです。

※九鬼(くき)和泉守隆国 幕府の儀式、典礼や大名が将軍に拝謁

する段取りを取り扱う奏者番を勤めていました。

       久貴公は安心して将軍に御目見え出来たでしょう。

※御積気   癪気(しゃっき)胸部、腹部に激痛が走る病気

       胆管か尿管結石を連想します。

※御防場・・。寛政11年(17994月桜田門の警備、防火担当に

       なっています。しかし、今回は家来は出すが、久貴公

自身が病気で出られない、と届を出したのでしょう。

 

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事件の罪人と家族、合わせて5人を江戸送り

享和元年(1801)辛酉   久貴公 御年十五歳

一、六月十三日、暑中御献上例ノ如シ

一、 二十五日、無宿吉兵衛父子・久吉並妻子共ニ五人、

目篭ニ入レ、

        御先手物頭鴨宮七郎右衛門義雄、

代官役中小性平原仙右衛門惟親差副(さしそえ)、

江戸へ差立ラル、足軽二十四人警衛ス

一、八月 朔日、御献上例ノ如シ、御使者里見 中沢本氏ニ復ス 

三郎左衛門義正

一、   五日、無宿ノ者、品川ヨリ直ニ松平周防守様へ差出サル

※目篭(めかご)百姓・町人の重罪囚を中に閉じ込めて護送に用いた駕籠。

唐丸籠(とうまるかご)とも呼ばれました。

竹で丸く編んだ高さ3(90cm)の籠を台板にかぶせ、

目の粗い網をかぶせ、棒を通し2人でかつぐ籠。

食器を入れる大きさの隙間・御器穴(ごきあな))と、

台板に大小便の落し穴があけてあったようです。

※岡藩家臣の紹介 ① 鴨宮七郎右衛門義雄 100石先手物頭

② 平原仙右衛門惟親  50俵4人扶持 中小姓

③ 里見三郎左衛門義正 400石 用人格

※怨恨が起こした事件とは言え、不可解で理解に苦しみます。

 恨まれた吉兵衛にも子がおり、恨んだ久吉にも妻子がいる。

 それぞれ、住んでいた所が遠く離れ、吉兵衛は備中の天領(現在の岡山県

倉敷市)、久吉は伊勢の藤堂藩(三重県松阪市)で接点が分かりません。

 両者とも在所を捨てて家族とともに逃げたり、追いかけたり、これまた

遠く離れた岡にまでやって来るとは合点がゆきません。

 岡藩としては、護送のための人件費、旅費等の経費を幕府に下さいとは

 言えず余計な出費になりましたね。

 

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他藩の者同士の刃傷事件 幕府寺社奉行の裁きへ

寛政十三年(1801)辛酉  久貴公 御年十五歳

一、正月 二日、年始御献上例ノ如シ、

御使者中沢三郎左衛門義正

一、   三日、御献上例ノ如シ

一、二月十三日、年号改元

享和元年(1801)辛酉  

一、三月 二日、先年御焼失ノ二ノ御丸御書院御門、

此度御普請、吉辰ニ付、今日御棟上アリ、

御年寄役番頭奉行職ノ面々、願ニ因テ御入箇ヲ献ス

一、五月 二日、端午御献上例ノ如シ

一、  二十日、寺社御奉行松平周防守康定様ヨリ、

去ル六月刃傷ニ及フ無宿久吉・吉兵衛

御吟味ノ儀コレアルニ付、公儀へ差出サルヘキ旨御差図

※先年御焼失  明和8年(1771)1月17日

(上角より出火)西南之風甚烈ク、本丸・二ノ丸・三ノ丸幷任居不残、

武器入置候庫、其外城内外侍屋敷・百姓家等焼失仕、・・。

※二ノ御丸御書院御門  天明八年(1788)6月 

岡城二ノ御丸切手御門御火災後御普請成就

※寺社奉行 社寺領以外、幕府の直轄地・天領にまたがる訴訟を担当

※松平周防守康定 石見浜田藩の第2代藩主  松井松平家7代。

※他藩の者同士が起こした刃傷事件

伊勢津藤堂藩(いせのつとうどうはん)新開村の久吉が

幕府領備中国(びっちゅうのくに)乙島村の吉兵衛を切りつけた事件。

 

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明和8年焼失の武具 新調して本丸に納める

寛政十二年(1800)庚申 久貴公 御年十四歳

一、(9月)日闕 御本丸へ御引除置ノ御武器百領百背、

明和八年辛卯焼失ノ処、此節新規出来

一、十一月二十七日、寒中御献上例ノ如シ

一、十二月朔日、御旗幕ノ御紋形御書附差出サル

一、  十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※不染斎随筆の記述より 

6063 明和8年辛卯正月17日、御城御類焼の節、

御伝来の御兵器焼失の御届けありし御書付。

  同年3月の月番方の狀留の内より写し置きたるを爰に記す。

 (数行省略)近年、広計(随筆の著者)、御軍用御手当に

御兵器の取調べ 御用掛り仰せ付けられし時の御兵器現物帖あり。

  是にて考合すべし。焼失の覚(御年譜附録の写しと思われます)

  1、旗   120流  内 練り絹  70流

     旗掛りの者 具足 70領 上は布共

  1、大 馬 印     7張    但し 竿共

  1、小 馬 印     9流    但し 竿共

  1、陣 貝      20

  1、鐘        10ケ    但し 鐘木共

  1、鉄 炮    3000挺

     但し 3匁筒より1貫目筒迠 小道具共 幷 袋覆共

     猩々皮 花色羅紗 黒羅紗 雲竹 滑革

  1、総 玉 数   80万余  

     内 鉛百匁玉より白目唐金一〆目玉に玉石ふか火炮爆玉 

小筒玉品々共

  1、鉛   5百貫目程   1、鋳 型 鋳鍋類(以下省略)

※これらの記録に残された武具を新規に誂えて、

本丸に納めたものと思われます。

 

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