2019年01月

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久貞公の3男・鷹之允久徴公 水野家の養子になる

天明三年(1783)癸卯 久貞公 御年六十歳

一、四月十二日、鷹之丞久徴様、

水野日向守勝起様御急養子御相談ニ及ハルヽノ段、

御老中マテ御達シ、

十三日、日向守様御逝去、

鷹之丞様へ御忌服受サセラルヘキ旨仰セ蒙ラル

一、 十四日、鷹之丞様永野家へ御引越、御実名勝剛卜御更

一、 十六日、種姫様御結納済セラル、御祝儀御献上、

       公方様へ二種一荷

       大納言様へ右同

       種姫君様へ一種金五百匹

       御部屋様へ一種金三百匹

※鷹之丞様  宝暦8年(1758)4月1日、江戸で誕生

下総国結城藩の第5代藩主水野日向守勝起(かつおき)が

天明3年(1783年)412日、39才で急死したため、

緊急に養子縁組をしたようです。末期養子ですね。

下総結城藩の第6代藩主として水野勝剛(みずのかつかた)を

名のります。家格、禄高ともに岡藩中川家を上回ります。

余談として 水野勝愛(みずのかつざね)のこと

父・鷹野丞久徴(ひさあき)公が水野家の養子になる前、

安永9年(1780)久徴公の長男として江戸の岡藩邸で誕生。

父が水野家の養子になり、父に連れられ結城藩に移り、

  後、父の跡を継ぎ下総結城藩の第7代藩主となりました。


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         岡城址 本丸跡

台風被害復興のため 幕府から3000両拝借

天明三年(1783)癸卯 久貞公 御年六十歳

一、正月二日、年始御献上例ノ如シ、御使者小泉勝司、

若殿様御献上・御拝領例ノ如シ

一、  三日、御献上例ノ如シ

一、二月十二日、去秋御領分大風雨、

御城中櫓塀門破壊、家中在町家作大破、

田畠荒等コレアリ、御願ニ依テ金三千両御拝借、

御上納十年賦仰セ蒙ラル、

尤 御病気ニ付、御名代若殿様御登城

一、  同日、御損毛ニ付、桜田組御防御免

※幕府よりの拝借金の事例

○享保17年(1732年)壬子  久忠公 御年三十五歳

当作毛夥(おびただし)く虫付損毛に付 

御拝借金御当家金子7千両ナリ、

来ル寅年ヨリ五年賦御上納

⦿食糧不足は深刻で、9月からは山に入り木の実をひろい、

葛の根を掘り、イビラを求めて、その飢をしのぐという

死寸前の状況であった。(朝地町誌)

○明和8年、(1771)辛卯 久貞公 御年四十八歳

当春御城中火災に付、御願に依て

金7千両御拝借仰せ蒙らる、御上納十年賦、

⦿城下町から出た火は、城に延焼し西の丸・三の丸・二の丸・

本丸まで焼き尽くす大火となり、幕府から7000両を拝借した。


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    伊豆坂 左上 広瀬神社  右上 岡神社

藩校由学館 杣谷から伊豆坂に移る

天明二年(1782)壬寅  久貞公 御年五十九歳

一、(10月)八日、思召コレ有ニ付、中川求馬方ヨリ鶴次郎殿 

始中川大四郎久知養子ニ下サル処、

其後大四郎離縁ニナル、依テ求馬嫡孫承祖トナル 

御取戻シ、御名大炊卜御更メ

一、   同日、江戸ニ於テ老職中川求馬久敦隠居

一、 二十七日、御家中歩方御弛渡初テ成下サル 

此後追々御増アレトトモ略ス

一、十一月朔日、豊州ニ於テ中川図書次男鉄之助和邦 後鶴次郎久照ト更名

中川求馬養子トシテ家督相違ナク、老職仰セ付ラル

一、十二月六日、寒中御献上例ノ如シ

一、  十九日、杣谷由学館土地宜シカラサルニ付、

伊豆坂ニ御普請成就御移ニナル

一、 二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※中川求馬(久敦) 3代藩主久清公の7男主馬久周の家系

※嫡孫承祖(ちゃくそんしょうそ) 祖父が孫を跡継ぎにすること

  祖父・求馬久敦 → 父・図書久典 → 子・鶴次郎(のち久照)

  求馬久敦の子・図書久典は、隼人久美家の養子でした。

  自分の子を本家の跡継ぎにしたことになります。

※中川求馬久照(前名・鶴次郎) 3千石

※御家中歩方御弛み  岡藩の借金がかさみ、藩士の給米も借り上げ

         として何割か藩財政に組み込まれていたようです。

         その借り上げ率が少し弛んだと思われます。

※杣谷(そまだに)由学館(ゆいがっかん)伊豆坂(いずざか)


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台風の被害 新築西御郭倒壊 岡藩全体に及ぶ

天明二年(1782)壬寅  久貞公 御年五十九歳

一、八月 朔日、御献上例ノ如シ、御使者小泉勝司勝興、

若殿様御献上例ノ如シ

一、  二十日、岡大風雨、

西御郭新御殿大書院 

御普請屋根マテ出来ノ処 転ヒ、

其外御城内外御家中在町転家夥シ 

九月十四日御届出ル

一、九月 二日、重陽御献上例ノ如シ

一、十月 五日、岡両度ノ風雨御損毛御届差出サル、

高四万弐千八百九拾六石三斗五升

※御年譜附録に記載された台風被害の様子

附録 記録ニ、御用番田沼主殿頭様江被差出御届書

   私領分豊後国岡当七月十七日・同八月廿日夜大風雨

   ニ而城内本丸・二丸・三丸#西ノ方外曲輪住居向、

所々吹潰破損多、

其外侍屋敷、町在潰家倒木等御座候段申越候、

尤 八月廿日夜大風雨之儀ハ先達而一通り申上置侯得共、

七月十七日風雨之儀者、其節在所表飛脚早速差立候処、

海上悪敷、右飛脚前後ニ相成、此節相違申候ニ付、

一同ニ御届申上候、

   右両度破損委申越候趣、左之通御座候

  本丸  一、三重櫓破損  一、侍番所一棟破損

      一、役人詰所長屋一棟大破

      一、鎮守社二ケ所大破 内、一ケ所拝殿吹潰

  二丸・三丸内 一、役人詰所長屋二棟大破 一、鐘撞堂大破

※御用番田沼主殿頭様 当番老中・田沼意次(おきつぐ)


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若殿・久徳公 江戸城内で出血

天明二年(1782)壬寅  久貞公 御年五十九歳

一、五月 二日、端午御献上例ノ如シ

一、六月十三日、暑中御献上例ノ如シ

一、  十六日、嘉祥 若殿様御登城、

御礼前御小用ニ御立ノ処、

御痔血ニテ暫ク御保養ノ内 御礼始ル趣ニ付、

大御目附へ御坊主ヲ以テ御達、

御礼仰セ上ラレス御退出

一、七月十七日、岡大風雨

一、 二十二日、御家中諸士系譜校正仰セ出サル 

系図方始ル

※端午 端午の節句  55

※嘉詳(の行事)616日、江戸城に諸大名が登城し、

大広間で神前に供えた菓子を頂戴していた。

  その菓子を頂いたお礼挨拶をする前に、出血したようで、

  大目附に届けてそのまま江戸城から退出したようです。

※岡大風雨   台風襲来 岡藩は717日、820日と

続けて台風に襲われています。被害は次回記載。

※御家中諸士系譜 参考資料 不染斎随筆に関係の記載があります。

右、裁許所の帖面は、天明の初め大河原湛楽斎、御系譜取調御用見合

のため、彼方に取出しありしを、広計抜書にしたるなり。

 了山公御代、寬保中、御家中より差出せし家々の系図の誤りを考るにも、

此の親類書の帖は大いに益ありと湛楽斎いえり。


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