2018年12月

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若殿(久徳公)の奥方に女子誕生

安永二年(1773)癸巳 久貞公 御年五十歳

一、正月二日、年始御献上例ノ如シ、

御病気ニ付、御使者中沢蔵多助堅、

若殿様御献上・御拝領例ノ如シ

一、  三日、御献上例ノ如シ

一、二月二十六日、万寿姫君様去ル二十日御逝去ニ付、

御中陰御献上氷砂糖一壷、

       大納言様へ右同

一、閏三月十八日、御新造様御着帯御元服

一、五月二日、端午御献上例ノ如シ

一、 十一日、御新造様へ御女子御誕生 

公儀ニハ香橘様ノ次ニ書出 

       御名純(後松平備中守様へ嫁セラル)ト

殿様ヨリ進セラル

※万寿姫   10代将軍家治の次女

※御新造様  若殿(久徳公)の正室・丹羽高庸の娘

※香橘様   後の修理太夫久持公。久徳公の次男

安永5年(17761120日誕生

幕府には明和8年誕生として届出る

※松平備中守 松平正路(まさみち)

上総(かずさ)大多喜(おおたき)藩の第5代藩主。

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岡藩の銀札通用はじまる

明和九年(1772)壬辰 久貞公 御年四十九歳

一、八月朔日、両殿様御献上例ノ如シ、御病気ニ付、

御使者辻要人昭秘・安威藤助利紀

一、  同日、岡銀札通用始ル

一、二十一日、心観院様一周御忌御法事ニ付、御香奠御献上白銀壱枚

一、九月二日、重陽御献上例ノ如シ

一、十一月九日、若殿様御婚礼

一、 十四日、当夏以来雨繁ニ付、御損毛御届差出サル、

高四万九千九百八拾七石五斗八升

一、 十五日、若殿様御婚礼ノ御礼仰セ上ラル、御献上紗綾三巻、

大納言様へ白銀三枚、御病気ニ付、若殿様御登城

一、二十五日、年号改元

安永元年

一、十二月十五日、寒中御献上例ノ如シ

一、二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※銀札発行  井上主水左衛門並古(へいこ)の農村再建

農村に対する様々な救済措置の他に、井上並古の大きな経済政策として

藩札の発行があげられる。彼は大坂に出て、藩札発行に閲し経験豊かで

財力のある商人から、制度に対する知識や兌換のための正貨準備の支援を

得るなど、銀札発行に尽力したといわれる。(緒方町誌)

※井上主水左衛門並古  一代家老 800石  後 千石

 代々家老を勤めている古田家から井上家に養子に入った。

※若殿様御婚礼 陸奥二本松藩6代藩主丹羽高庸の娘・貴と結婚

7代藩主丹羽長貴(たかよし)の姉


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久貞公 桜田門防火担当に  若殿(久徳公)長男を亡くす

明和九年(1772)壬辰 久貞公 御年四十九歳

一、五月二日、端午御献上例ノ如シ

一、六月十四日、桜田組御防仰セ蒙ラル

         御相役  細川若狭守利致様

              松平近江守長員様

              松平備後守利通様

一、 十六日、嘉祥御菓子、両殿様御頂戴

一、二十一日、暑中御献上例ノ如シ

一、二十四日、老職中川外記広安隠居、

嫡子藤四郎広在へ家督相違ナク、老職仰セ付ラル

一、二十六日、芳菊様江戸ニ於テ御逝去、御年五歳、

麻布大泉寺ニ葬り奉ル、御法号円立院殿玉盤玄光禅童子、

久徳公御長男、御母ハ 御侍女大町氏、

明和五年戊子九月二十五日、御誕生 

未タ御弘メコレナシ

一、七月十九日、日光公啓法親王去ル十五日薨御ニ付、

大納言様御中陰、御献上氷砂糖一壷

※櫻田組御防  江戸城を延焼から守る担当部署が桜田門だった。

  細川若狭守利致 肥後細川藩の支藩新田藩5代藩主 領地を持たず

3万5千石を分与され、江戸屋敷に住む定府大名。

※中川外記広安 前名・中川(古田)覚左衛門 千百50石

※芳菊    若殿・久徳公の長男 

※公啓法親王 宝暦2年(1752)、日光輪王寺門跡(もんぜき),

12年(1762)、天台座主(ざす)となった。


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参勤交代延期  大名行列の人数が揃わない?

明和九年(1772)壬辰 久貞公 御年四十九歳

一、正月二日、年始御献上例ノ如シ、御病気ニ付、御使者辻要人昭秘、

       若殿様御献上例ノ如シ

一、  三日、御献上例ノ如シ

一、三月朔日、浅草御蔵火ノ御番仰セ蒙ラル、

御相役津軽出羽守信寧様

一、四月朔日、御登城、御居残ニテ当年御暇御順年ノ処、

御人少ニ付、御暇下サレサル旨仰セ蒙ラル

一、  十日、御新造様御当家へ御引越、

追テ御婚姻御整ナサレ度旨御願済セラル

一、二十一日、丹羽様へ御結納進セラル、御使者芦沢幸右衛門

一、  同日、御新造様御引越、御名貴卜称シ奉ル

一、二十三日、浅草御蔵火ノ御番御免

※浅草御蔵  御米蔵、天領から集めた米を入れた蔵

この蔵の米が旗本・御家人たちの扶持米。今でいう給料となる。

隅田川の右岸に上流から一番、二番と数える8本の堀を作り、

それに面した67棟の米蔵が連なった。(ウィキペディア)

※御暇下サレサル旨・・。 お暇下されざる旨・・。

 将軍からお暇をいただけないので、江戸に残る・・。岡には帰れない。

 江戸詰めの家臣の数も経費節減で削減したのでしょうが、行列を組んで

国に帰るとなると家臣は準備が整っても、全体の三分の一程度で、

大部分は中間小者などの荷物持ちで、その度毎に臨時に雇っていたので

給金が無いと雇えません。前の賃金未払があると人は集まらないでしょう。


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岡藩 幕府より藩札使用を認められる

明和八年(1771)辛卯 久貞公 御年四十八歳

一、九月朔日、御台様先月二十日薨御ニ付、

御中陰御献上氷砂糖一壷、

       大納言様へ右同

一、 十五日、大納言様へ御中陰二度目御献上葛粉一箱

一、二十三日、心観院様御法事ニ付、御香奠御献上白銀壱枚

一、二十七日、重陽御献上例ノ如シ 御中陰ニ付、是迄御延引

一、  晦日、当夏以来旱魃並ニ水損ニ付、御損毛御届差出サル、

       高五万四千三百七拾石余

一、十月五日、大納言様へ重陽御献上例ノ如シ 

御中陰ニ付、是迄御延引

一、十一月二十五日、御領分銀札通用

御願ヒ済セラルヽノ旨仰セ出サル

一、 二十七日、岡城当春火災ニ付、連々元ノ如ク

御普請御願済セラル

一、十二月五日、寒中御献上例ノ如シ

一、 二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※明和八年辛卯十一月、中川修理大夫の銀札発行高は、

1507貫500匁とある。

元来藩札は、その使用がその藩内に制限されていたが、

岡藩札は大阪や肥後藩内でも白由に使用されていた。

その理由としては藩領内に尾平・木浦・その他の有望な鉱山が

あって、盛んに生産された裏付けのあったためである。(朝地町史)

   1貫=100両=1000匁  100両≒1000万円

※当夏以来旱魃並ニ水損  最悪の天候ですね。

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