2018年12月

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3代藩主久清公の孫・久姫の子(久貞公の4女)数奇な運命をたどる

安永四年(1775)乙未 久貞公 御年五十二歳

一、正月 二日、年始両殿様御献上例ノ如シ、御病気ニ付、

御使者清水右平友休・安威藤助利紀

一、四月十五日、御参勤御礼、

御病気ニ付、御使者ヲ以テ御献上例ノ如シ

一、五月 二日、端午御献上例ノ如シ

一、 二十一日、神田橋御門御番仰セ蒙ラル、

御相役毛利甲斐守匡豊様

一、六月十六日、嘉祥御菓子、若殿様御頂戴

一、 二十七日、暑中御献上例ノ如シ

一、八月 朔日、御献上例ノ如シ、

御病気ニ付、御使者安威藤助利紀、

        若殿様御献上例ノ如シ

一、九月 二日、重陽御献上例ノ如シ

一、十月二十三日、於窕様 於線様御更名 

大久保加賀守忠顕様へ

御縁組御願ノ通仰セ蒙ラル

一、十二月十八日、寒中御献上例ノ如シ

一、閏十二月十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※於線 線姫 窕(ちょう)と改名 宝暦9年(1759)誕生 

久貞公の4女 正室久姫の子 

久姫は3代藩主久清公の血筋になります。

明和4年(1767)2月10日、於線様先達テ御縁組済セラルゝ処、

(縁組の相手)仙石陽之助様御死去 したため、

大久保忠顕(相模国小田原藩の第6代藩主)に嫁いでいます。

しかし、大久保忠顕存命中(享和3年(1803)死去)に

小笠原長教(越前勝山藩の第6代藩主)と久貞の娘(窕姫)の

間に小笠原長教の長男第7代藩主・長貴が寛政5年誕生しています。

母親は久貞の娘と書かれていますので窕姫と思われます。

  ウィキペディアでは中川久貞の娘、

岩(藤堂高嶷正室)、 貞(伊東祐福正室)、 巻(森忠賛正室)、     充(大久保忠顕正室のち小笠原長教正室)とあります。

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自然災害が続く中 三階の本丸 再建

安永三年(1774)甲午 久貞公 御年五十一歳

一、十一月六日、当夏雨繁、秋ニ至り降続、不時ノ冷気ニ付、

御損毛御届差出サル、

高三万九千三百六拾弐石七斗五升

一、 二十五日、御本丸御三階櫓御火災後、御普請成就

一、十二月七日、御持病ニ付、

来年御参勤マテ御滞府御願済セラル

一、  同日、寒中御献上例ノ如シ

一、二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※当夏雨繁、秋ニ至り・・。 夏から秋にかけての長雨と冷害で

農作物の被害が3万9千石余りになった。

   この時期、自然災害が岡藩財政に深刻な打撃を与えています。

        明和6年(1769)台風、地震で5万4千石被害

        明和9年(1772)長雨で4万9千石被害

※御本丸御三階櫓 御普請成就  本丸を再建

明和8年(1771)正月17日の火事の復興で先ず、お城の象徴、

本丸本体を4年近くかけて再建したようです。

火事は、岡 上角(うえつの)内畑 足軽屋敷より出火、

風烈しく一時に御城内に火移り、西御丸、御本丸、御廟、下原まで

類焼して、焼け残ったのは三の丸だけだったようです。

全体の再建費用として7000両を10年年賦で幕府から借りています。

しかし、再建がほぼ終わるまで約30年かかっています。


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参勤交代 またまた 病気を理由に延期願い

安永三年(1774)甲午 久貞公 御年五十一歳

一、六月十三目、御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラル、

御拝領例ノ如シ

一、 十八日、暑中御献上例ノ如シ

一、七月九日、御持病ニテ御発駕御延引ノ御届差出サル

一、二十六日、御新造様へ御女子御誕生、

御名斐卜殿様ヨリ進セラル

一、八月朔日、御献上例ノ如シ、御使者中川助之進三達

一、  四日、若殿様八朔御献上例ノ如シ、

御使者安威藤助利紀 

御産穢ニ付、是迄御延引、

一、 十三日、御持病ニ付、当冬マテ御滞府御願済セラル

一、九月二日、重陽御献上例ノ如シ

※御在所ヘノ御暇  岡藩へ帰ってよいと、江戸での勤めを猶予された。

      しかし、久貞公は持病を理由に参勤交代の延期願いを出す。

※御新造様  久貞公の次男・久徳公の奥方。

※御名斐(あや)

※八朔(はっさく)徳川家康が8月1日、初めて公式に江戸城に入った日。

江戸幕府は正月に次ぐ祝日としていたようです。 

※御産穢   出産のとき、生まれてきた子の父母の身に穢(けがれ)が

かかると云われた。父は7日間、母は35日間仕事や神事

などを慎むようにしていたようです。

●訂正 昨日のFBで釤之助の釤(さん)文字化けしていました。


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若殿(久徳公)の次男(釤之助・さんのすけ)誕生 

安永三年(1774)甲午 久貞公 御年五十一歳

一、正月二日、年始御献上例ノ如シ、

御病気ニ付、御使者中沢蔵多助堅、

若殿様御献上・御拝領例ノ如シ

一、 三日、御献上例ノ如シ

一、十一日、若殿様御部屋ニ御男子御誕生、

御名釤之助(後久貞公御嫡孫御承祖)卜称シ奉ル、

御母ハ御侍女福原氏

一、四月十五日、御病後御礼仰セ上ラル、

御献上干鯛一箱、

        大納言様へ右同

一、五月二日、端午御献上例ノ如シ

※久貞公御嫡孫御承祖(ちゃくそんごしょうそ)

    久貞公から孫が家督を受け継ぐこと

※大納言様  徳川家基 10代将軍家治の長男。

       11代将軍になると思われていたが、18歳で急死。

   余談  突然の死について、暗殺、毒殺が語られています。

       家基の将軍就任によって失脚を恐れた田沼意次犯行説、

       徳川家斉を将軍につかせたい一橋家当主・治済の犯行説と

       あるようです。

       シーボルトの「日本交通貿易史」には家基がオランダから

輸入したペルシャ馬に騎乗中、落馬事故を起こして死亡し

たと書いてあるそうです。(ウィキペディア)

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久貞公 病気長引き 公務支障?

安永二年(1773)癸巳 久貞公 御年五十歳

一、六月五日、暑中御献上例ノ如シ

一、  九日、惇信院様十三回御忌御法事中、御献上氷砂糖一壷

一、 十三日、右御法事ニ付、御香奠御献上白銀二枚

一、 十六日、嘉祥御菓子、若殿様御頂戴

一、二十九日、桜田組御防御免

一、八月朔日、御献上例ノ如シ、

御病気ニ付、御使者中川助之進 但見更名三達、

若殿様御献上例ノ如シ

一、二十一日、心観院様三回御忌御法事ニ付、

御香奠御献上白銀壱枚

一、九月二日、重陽御献上例ノ如シ

一、十一月二十七日、寒中御献上例ノ如シ

一、十二月二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※惇信院   9代将軍徳川家重の院号

※嘉祥御菓子 嘉詳(定)(かじょう)、陰暦616日、16個の菓子

または餅を神に供えたあとに食べる。これで疫病を払う。

※桜田組   桜田門で江戸城の類焼予防を担当する大名グループ。

  余談   某団体では、桜田門にある警視庁を桜田組と

       云っているそうです。(真偽不明)

※中川助之進三達 前名・戸伏但見 千2百石

中川備後光邦の養子 中川主計光伴の子

※心観院   10代将軍徳川家治の正室(御台所)


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