
久貞公の7女 巻姫 中川図書嫡子の妻になる
明和三年(1766)丙成 久貞公 御年四十三歳
一、(4月)二十三日、御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラル、御拝領例ノ如シ
一、五月二日、端午御献上例ノ如シ
一、 十四日、於巻様中川図書へ下サレ、同道致シ罷下り、
追テ嫡子平七ニ妻スヘキ旨仰セ付ラレ、二百石御附
一、六月十四日、当秋中迄 御滞府御願済セラル
一、 十八日、暑中御献上例ノ如シ
一、八月朔日、御献上例ノ如シ、御使者中沢蔵多助堅
一、二十五日、近戸口御門並櫓二ケ所去冬焼失ニ付、
元ノ如ク御修補御願済セラル
一、九月二日、重陽御献上例ノ如シ
一、 十五日、当冬中マテ 御滞府御願済セラル
一、十二月十一日、寒中御献上例ノ如シ
一、二十一日、来四月御参勤マテ御滞府御願済セラル
一、 同日、歳暮御献上例ノ如シ
※中川図書 中川図書久典 3代藩主久清公の7男・主馬久周の家系
久清公7男主馬久周 → 求馬久敦 → 中川図書久典
※久清公の家系につながる家老はすべて、久の一字を付けています。
※江戸に留まる、滞府願を3度にわたって出しています。
① 当秋中迄 ② 当冬中マテ ③ 来四月御参勤マテ
※この時期の久貞公のことを竹田市誌ではこう記述しています。
久貞は、江戸にいることを好み、明和元年の夏参府後は病気を理由に
岡に帰らず、権門賄賂のために浪費が多いばかりでなく、贅沢な買い
物も多く、借財が嵩み、ついに家中渡し(給金)も借上げ(減給)に
至り、大坂では借金のために「御蔵崩れ」(破産)になり、藩は上下
困難を極めた(小河一敏「猪首語」)。
というのが実情であったらしい。



