2018年09月

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       山崎街道 郡山 椿の本陣前

久忠公 岡藩主として初めて 郡山宿本陣 に宿泊

寛延三年(1750)庚午 久貞公 御年二十七歳

一、(5月)六日、江戸御発駕、御仮養子酒井三郎助様、

十九日、京都御勤、

    同日、伏見御着、

廿日、同所御勤、山崎通、中国路御通行、

芸州宮島、長州赤間ケ関阿弥陀寺、

豊前宇佐へ御参詣

一、六月十一日、御帰城

一、 十八日、暑中御献上例ノ如シ

一、七月五日、御在着御礼、御使者清澄右源太宗愈差上ラル、

御献上例ノ如シ

一、八月朔日、御献上例ノ如シ、御使者高田半歳政固

一、九月二日、重陽御献上例ノ如シ

一、十二月十一日、寒中御献上例ノ如シ

一、 十二日、歳暮御献上例ノ如シ

※山崎通  京都の桂川を渡り、山崎、郡山を経て西宮に行く

街道。山崎の合戦の古戦場を通り抜けます。

※中国路  大坂から下関に向かう、西国街道。

※家格が物事を左右する時代、過去の実績もなく本陣に割り込む

のは、困難だったと思われますが、久忠公の生家・松平の威光が

反映されたのかもしれません。


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御献上 岡藩江戸留守居役 準備で大忙し

寛延二年(1749)己巳 久貞公 御年二十六歳

一、 十二日、三佐御乗船、

二十一日、大坂御着、

二十二日、御勤、

二十三日、伏見御着、即日御勤、

 二十四日、京都御勤

一、七月十四日、江戸御着

一、二十八日、御参勤御礼、御献上例ノ加シ

一、八月朔日、御献上例ノ如シ

一、九月二日、重陽御献上例ノ如シ

一、十二月二日、寒中御献上例ノ如シ

一、二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

寛延三年(1750)庚午 久貞公 御年二十七歳

一、正月二日、年始御礼、御献上・御拝領例ノ如シ

一、  三日、御献上例ノ如シ

一、四月二十一日、大猷院様百回御忌御法事ニ付、

御香莫御献上白銀弐枚

一、二十三日、御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラル、

御拝領例ノ如シ

一、五月四日、端午御献上例ノ如シ

※御勤  御勤めと云っても、

     大坂城代、伏見奉行、京都所司代に

それどれ挨拶に出向く程度だったと思われます。

※大猷院様  徳川家光、江戸幕府の第3代将軍


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貞姫 岡城に誕生  三宅山鹿狩りを行う

寛延二年(1749)己巳 久貞公 御年二十六歳

一、正月二日、年始御献上例ノ如シ、御使者中川外江光邦

一、十一日、千助様御袴着

一、二十二日、二十五日、三宅山御狩

一、三月二日、岡城ニ於テ御女子御誕生、

御名貞(後伊東家ニ嫁セラル)ト称シ奉ル、

       御母ハ側室北條氏

一、五月二日、端午御献上例ノ如シ

一、六月九日、岡城御発駕

一、 十一日、暑中御献上例ノ如シ

※千助様   延享2年(1745)久貞公22歳の時の子

岡城にて誕生、御母ハ側室北條氏

※三宅山御狩    11代久教公のとき、この鹿狩りの様子を

描いた「三宅山御鹿狩絵巻」が残されています。

45cm、全16巻、全長272m程

※伊東家ニ嫁セラル 日向国飫肥藩の第9代藩主

伊東祐福(いとうすけよし)の

奥方になっています。

※伊東家との縁は古く、

元和7年(1620)去冬大坂玉造口御普請場石垣、

伊東修理亮祐慶様御受持ノ処、水敲崩レ、

御当家御持場モ損ス 以来、長いお付き合いです。

 

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岡 大風雨  今でいう台風来襲

寛延元年(1748)戊辰 久貞公 御年二十五歳

一、(7月)二十一日、御在着御礼、

御使者浦部庄五郎令正差上ラル、

       御献上例ノ如シ

一、八月朔日、御献上例ノ如シ、御使者高田半蔵政固

一、 十八日、甲州御普請ニ付、御拝領物ノ御礼、

御使者朽木勝之進軌重差上ラル

一、九月二日、重陽御献上例ノ如シ

一、  同日、岡大風雨所々損失 十月十二日御届出ル

一、十一月十八日、寒中御献上例ノ如シ

一、十二月十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※お隣、臼杵藩領三重町(現大野市)の記録

元文2年(1737) 洪  水

  元文3年(1738) 凶作、鷺谷の百姓岡領田原園村に立退く。

男女37人、牛三匹帰村、

ほうそう火葬停止

  元文4年(1739) 三重郷民検見を出訴して

七歩方減租を許された

  元文5年(1740) 山田村の百姓七戸岡領牧口村に立退く、

  寛延元年(1748) 雨乞、

9月17日より仝22日目迄

暴風雨、洪水、3200戸倒れた

※寛延元年この年は、干天が続き雨乞いから一転、暴風雨。

 岡藩のこの年の被災記録が見つかりませんが、 三重は隣町

ですので、岡藩でも同じ災害が起きていたと思われます。

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甲州河川工事を行った岡藩に幕府から褒賞

延享五年(1748)戊辰 久貞公 御年二十五歳

一、七月朔日、甲州富士川通御普請御手伝御勤ニ付、

御拝領御時服十、

御在邑ニ付、御名代秋月佐渡守種美様衛登城

一、同日、右御用掛御家来七人御城ニ召サレ、拝領物仰セ付ラル

   銀三拾枚 御時服三 御羽織一  中川宮内頼母更名広安

   銀弐拾枚 御時服三 御羽織一  中沢三郎左衛門助員

   右同              森本弥次兵衛宗房

   右同              粟生伝右衛門公儔

   銀拾枚  御時服二 御羽織一  市浦半平好親

   右同              多田十右衛門勝美

   右同              樋口文左衛門勝美

一、七月四日、暑中御献上例ノ如シ

一、十八日、年号改元

※御在邑ニ付  久貞公が岡に帰っているので

※秋月種美(たねみ) 日向国高鍋藩6代藩主

   有名な上杉治憲(鷹山)出羽国米沢藩主の父親です。

   父親5代藩主秋月種弘の奥方は久通公の娘・菊姫です。

※中川宮内頼母(更名)広安  工事指揮の家老

※この頃、薩摩藩の木曽川工事で悲惨な事件が起きています。

〇宝暦治水事件 宝暦4年(1755

幕府の命令で施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の

治水事業の過程で、薩摩藩士51名自害、33名が病死し、

工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した事件です。


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