2018年08月

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            久忠公の墓

久忠公 碧雲寺で葬儀 葬られる

寛保二年(1742)壬戌  久忠公 御年四十五歳

一、十一月十五日、碧雲寺ニ於テ御葬式、同寺ニ葬り奉ル

         御法号通玄院殿雲外了山大居士

      御碑文

    寛保二年壬成冬十月十三日従五品内膳正

    源君病卒于岡城之居第享年四十有五以十

    一月十五日葬于碧雲寺之丘先塋之東側人矣

    君諱久忠其姓源其氏中川其先自修理大夫

    諱秀成世為豊之後州岡城主考因幡守諱久

    通妣酒井氏元老野之上州前橋少将雅楽頭

    源朝臣忠清之女君以元禄十一年戊寅二月

    二十四日生于武州江府之邸其為人篤実温

    順得之於天孝友于家敬事于 公雍睦親姻

    慈恕臣庶不幸雖自幼多病然其平居好学時

    時使儒臣講経又以余力習熟武術其配松平

    氏讃州高松中将源朝臣頼豊之女矣無子以

    芸州広島少将源朝臣吉長之季弟為後今日

     朝散大夫山城守聊記其世家行実之概伐石

    以表昊天罔極鳴呼痛哉寛保二年冬十一月

      山城守久慶謹述

 御肖像御長袴御当家並ニ碧雲寺 御位牌碧雲寺並ニ

  江戸青松寺、御供養トシテ御宝塔高野山ニ御建立

一、当御代老職  中川主馬久周    中川将監長昌

         中川数馬久隆    中川主水重員

         中川織部三正    中川右門久虎

         中川兵庫久明    中川伊織相政

         中川民部久休    中川主計光伴

         中川大三郎久治   中川玄番長時

         中川丹下資房    中川平右衛門長定

         中川主馬久屋    中川帯刀和弘

         中川又右衛門正矩  中川求馬久敦

         中川覚左衛門広安  中川多門光邦

         中川直三郎長著

※老職の数が多いいようですが、久忠公の治世は33年間と

 長かったため、補佐する老職も多くなったようです。

※久忠公は13歳で岡藩中川家の家督を継ぎ、治世33年間と長く、

 功績も認められたようで、お墓は中川家の墓地の門をくぐったら

 すぐ右側、秀成公、虎姫の墓の前、左手に控えるように建てられ

ています。

 
 

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        中川家墓地

第6代藩主久忠公 岡城で死去  45歳

寛保二年(1742)壬戌  久忠公 御年四十五歳

一、十三日、御容体御大切ニ付、江戸へ注進、

中国路 飯沼富右衛門義重、

船路 安威市右衛門勝陟 早追ニテ差立ラル 

富右衛門ハ大坂へ遅着ニ付、同所ヨリ立帰ル

      且 水島半七安倍 差立ラル 御医師御願等ノ儀、

若殿様御附マテ老職ヨリ申上ル

一、同日午ノ刻、御逝去、御年四十五歳 

公儀御届ノ御年ハ四十六歳

御世三十三年

一、同日、江戸へ注進、中国路 佐曽利畦右衛門重矩、

船路  安西治部右衛門宗征 差立ラル

御届ノ事詳ナラス、次部右衛門ハ大坂ヘ遅着ニ付、

同所ヨリ立帰ル

一、同日、南李庵出立、御使者大谷武太夫同道

一、二十八目、御奥様、御院号栄久院卜称シ奉ル

※中国路、船路ともに参勤交代の際の交通路です。

 江戸への緊急連絡をするのに、使者双方を競わせて、

 一刻も早く江戸へ届けようという様子が見て取れます。

 岡藩大坂屋敷に遅く着いた方が、そのまま、Uターン

 して岡に帰って来なければいけない。

 使者に立った藩士も必死だったでしょう。

※肥後熊本細川藩の医者・南李庵は久忠公の死を看取った

のでしょうか、同じ日に岡を出発して熊本へ帰っています。

※御奥様、御院号栄久院院卜称シ奉ル

     久忠公が死去して即日、

尼になる奥方の気持ちが察せられます。


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久忠公 病いよいよ重く 肥後より 細川家の医師を招く

寛保二年(1742)壬戌  久忠公 御年四十五歳

一、十月八日、御容体兎角御勝レ兼二付、

細川越中守宗孝様へ御医師御雇トシテ、

御使者大谷武太夫忠寛差立ラレ、

彼方御医師南李庵差越サル、

十二日、李庵岡着、同夜、御居間ニ召レ診ノ上、

御薬御所望ノ処、初テ御脈相診フ事ニ付、

又々明朝得卜診ノ上ニテ、

       猶此方御医師ヘモ相談ニ及ヒ、御薬差上へキ旨申シ、

某夜八ツ半時、御客屋へ引取、挨拶人へ申聞ルハ、

甚重キ御容体ニアセラレ、御薬ノ存寄モコレナク、

又 明朝 相診、矢張御同遍ニ御座ナサレハ、

明日ハ罷立度執成相頼ム由申ス、

然ル処同夜中ヨリ殊ノ外御勝レ兼二付、

十三日朝、早速御使者遣ハサルレトモ、固ク御断申上罷出ス

※この南李庵という医師、中々慎重かつ細心、岡藩の医師とも連携し、

 安易な処置をせず、冷静な診断をしたようです。

※細川越中守宗孝  肥後熊本藩の第5代藩主。

◯余 談  延享4年(1747年)8月15日、

細川越中守宗孝は月例拝賀式のため江戸城に登城し、

大広間脇の厠(かわや)に立った際、旗本寄合席の板倉勝該に

突然背後から斬りつけられ、まもなく絶命した。享年31。

    板倉家の相続に関係した誤認刃傷だったようです。


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久忠公 持病がだんだんひどくなる

寛保二年(1742)壬戌  久忠公 御年四十五歳

一、二十六日、御在着御礼、御使者樋口重太夫勝房差上ラル、

御献上例ノ如シ

一、八月朔日、御献上例ノ如シ、御使者菅幸左衛門相英

一、日詳ナラス 御家中諸士系譜 撰定仰セ出サル、

中川帯刀和弘コレヲ掌ル

一 二十九日、中川玄蕃跡式養子直三郎長著へ相違ナク、

老職仰セ付ラル

一、九月二日、重陽御献上例ノ如シ

一、二十七日、御持病久々御勝レ兼ニ付、

大坂ニテ功者ノ医師御雇立ノ為メ、

御徒士柳原太郎兵衛光重差立ラル

※御家中諸士系譜  岡藩の家臣それぞれ系図

※中川帯刀和弘   中川(古田)伊織相政の子 千5百石

※中川玄蕃     田近玄蕃長時 千石

※中川(田近)玄蕃長著 前名・直三郎 長時の養子 千石

※御持病久々御勝レ兼ニ付。 御持病がだんだん重くなるので

「病気が重くなった」「悪くなった」という記述を

しないことで、少しでも病気の回復を願う気持ちを

表しているのでしょう。


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      肥後街道 図の中央部に一ノ瀬  野津原商工会青年部作成

参勤交代 2度目の災難 鉄砲水で 行列分断される

寛保二年(1742)壬戌  久忠公 御年四十五歳

(6月)十六日、伏見御着、御勤、

十七日、大坂御着、

十八日、御勤、

十九日、同所御乗船

一、二十一日、暑中御献上例ノ如シ

一、二十八日、三佐御着、

晦日、野津原一ノ瀬御渡川ノ処、

御駕篭御通行ノ跡、俄ニ出水ニテ、

御供ノ面々御跡ニ残ルニ付、

七月朔日、今市御滞留、中川帯刀和弘堤マテ罷越、

其外御小性・御医師等モ御迎ニ罷出ル

一、七月朔日、老職中川玄蕃長時病死

一、  二日、御帰城

※この一ノ瀬を超えると肥後街道は山間部に入ります。

 石畳の宿場町で有名な今市はここから少し竹田よりです。

※瀬(せ) 川の流れの早いところ  淵(ふち)遅いところ

 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う(崇徳院)

※このうたを題材にして、崇徳院という古典落語があります。

※因みに、太祖清秀公は瀬兵衛、弟は淵兵衛という名前です


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