2018年08月

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       岡城址駐車場(総役所跡)と岡城址

久慶公 総役所門に訴状箱(目安箱)を出す

寛保三年(1743)癸亥 久慶公 御年三十六歳

一、日  闕 総役所門ニ訴状箱出スコト始ル

一、八月朔日、御献上例ノ如シ、

御病気ニ付、御使者森本弥次兵衛宗房

一、 十三日、大風雨ニテ郷中所々損失九月二十四日御届

一、九月二日、重陽御献上御小袖二

       右大将へ右同

一、  三日、岡城御本丸西ノ方

侍屋敷前石垣御修補御願済セラル

一、二十七日、当夏以来御病症ニテ御不例ノ処、

少々御快方ニ付、御保養トシテ御月代

並御下屋敷へ御越ノ御願済セラル

※訴状箱   寛保3年3月、郷中大庄屋宅に、訴訟箱を設け、

百姓の無実の訴をきき、かつ村民の不正を防ぐ一助とした。

世人これを藩の目安箱と呼称した。(朝地町史)

※朝地町史をみると、岡藩領全体に訴状箱(目安箱)が設置

 されたように思えます。

※総役所   現在、岡城駐車場になっているところに、

       総役所がありました。


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久慶公 江戸城神田橋御門 警備担当になる

寛保三年(1743)癸亥 久慶公 御年三十六歳

一、正月二日、年始御礼、御献上・御拝領例ノ如シ

一、  三日、御盃台梅ニ鶯 御献上 

磨土器ニ添フ御酒代金百匹

一、  十日、御家督後初テ上野総御霊屋へ御参詣、

白銀壱枚宛御供御服中ニ付、

御宮へ御献上御延引

一、 十四日、増上寺総御霊屋へ右同

一、四月十六日、神田橋御門御番仰セ蒙ラル、

御相役黒田甲斐守長貞様

一、五月二日、端午御献上御時服二

       右大将様へ右同

一、六月二日、暑中御献上葛粉一箱

       右大将様へ右同

一、 十六日、嘉祥御菓子御頂戴

※磨土器   磨消縄文(すりけしじょうもん)土器か?

縄文土器および弥生土器に見られる文様。

縄文をすり消す手法で作られた文様の土器。

※黒田甲斐守長貞 筑前秋月藩・第4代藩主

※神田橋御門 将軍が日光東照宮、上野寛永寺に参詣するとき、

江戸城を出発する門だったようです。

※葛粉(くずこ) 葛の根のデンプンを精製してつくる食用粉。

         夏は葛切りにして食べたのでしょう。


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久慶公 岡藩中川家 7万石 家督を継ぐ

寛保二年(1742)壬成 久慶公 御年三十五歳

一、十二月十九日、御黒書院波ノ間ニ於テ御老中御列座、

御用番松平左近将監乗邑様ヨリ

御家督相違ナク仰セ蒙ラル

一、同日、御上屋敷へ御引移

一、二十一日、御明細書差出サル

  養父内膳正

              実父松平古安芸守末男

     高七万四百四拾石余豊後国之内

本国常陸 生国安芸、中川山城守

     寛保二壬戊年十二月   居城豊後国岡、戌三拾五歳

一、同日、歳暮御献上御小袖二

       右大将様へ右同

一、二十三日、寒中御献上鮮鯛一折

            右大将様へ右同

一、二十八日、御家督御礼仰セ上ラル、

御献上、御太刀一腰、御馬一匹裸背、

黄金三枚、縮緬五巻

       右大将様へ御太刀馬代黄金三枚

※松平乗邑(まつだいらのりさと) 老中首座

山城淀藩主→下総佐倉藩初代藩主。

※養父内膳正     中川内膳正久忠

※実父松平古安芸守  浅野綱長 安芸広島藩第4代藩主

※中川山城守     中川山城守久慶


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久慶公 再婚願い出す 相手 柳沢吉保・長男の娘

寛保二年(1742)壬成 久慶公 御年三十五歳

一、正月二日、年始御礼、御献上・御拝領例ノ如シ

一、三月九日、松平甲斐守吉里様御息女

御再縁御願済セラル

一、四月九日、甲斐守様へ御結納進セラル、

御使者中川帯刀和弘

一、八月朔日、御献上例ノ如シ

一、十月十三日、久忠公岡城ニ於テ御逝去

一、 二十四日、久忠公豊州ニ於テ御病気御大切ニ付、

御看病御願ノ処、

翌二十五日、相済、即日江戸御発駕、

二十六日、藤沢駅ニ御着、

豊州ヨリ右御凶左右ノ注進水島半七安信到着ニ付、

直ニ江戸へ御使者差立ラレ、即刻御立、

江戸へ御引返シ、二十七日、御帰府、

御使者ヲ以テ御用番様へ御届

※松平甲斐守吉里  5代将軍綱吉の側用人柳沢吉保の長男

※中川帯刀和弘   中川(古田)伊織相政の子 千5百石

※久忠公、1013日に岡で亡くなったけれども、

江戸では、まだ岡の様子が不明のため、久慶公は久忠公の看病に

岡に帰る許可を得て、藤沢まで来たとき久忠公の死去を

伝える注進が届き、直ちに、江戸に引き返し、当番の老中に

久忠公死去の届けをしています。


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この年 岡の記録なし  台風 岡を襲う 被害大(御年譜附録)

元文六年(1741)辛酉 久慶公 御年三十四歳

一、正月二日、年始御礼、御献上・御拝領例ノ如シ

一、三月三日、年号改元

寛保元年

一、六月十七日、久忠公大手組御防中御持病ノ節、

御名代御出馬ノ御願済セラル

一、八月朔日、御献上例ノ如シ

一、二十一日、去ル七日、公方様右大臣御転任、

大納言様右大将御兼任、

去ル十二日、竹千代様大納言御任官

且 御元服ニ付、

御三方様へ御献上御太刀馬代

一、二十五日、右御祝儀御能コレアリ御見物、

紅葉ノ間ニ於テ御料理御頂戴

※この御年譜は何故か元文6年、寛保元年(17419月から

12月の記録がありません。

また、7月22日の岡 風雨洪水が載せられていませんので、

付録より転載します。

※(御年譜附録)寛保元年辛酉

一、七月二十二日、岡風雨洪水ノ條

 附録 記録ニ、公儀御届

  一、田畠八反九畝程

       内   田八反弐畝程   畠七畝程

  一、田畠壱町七反壱畝程 当荒

       内   田壱町壱反七畝  畠五反四畝程

  一、落井手    百六拾口

  一、吹潰宮    壱ケ所

  一、転家     七百九拾六軒

  一、落橋     五ケ所

  一、庄シ打レ死人 五人内  男三人 女弐人

  一、同死牛    壱疋

※転家  大きい石などの土台の上に家を建てて、

     石と柱を固定する方法が無かったために、台風など風の

強いときは転家(ころびや)が多くなったと思われます。

 

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