
幕府より岡藩が預かった人の書き出し届け その4
元文三年(1738)戊午 久忠公 御年四十一歳
一、四月十一日、以前ヨリ御預り人ノ有無御書附差出サルヘク旨
御達ニ付、御書出 その3
◯元禄2年(1689) 久恒公 49歳
④ 山角勝之助 同 金五郎 同 吉之允
(幕府)小普請小頭 山角権兵衛様 遠島ニ付、
子息 勝之助様・金五郎様・吉之丞様三人御預ケ
右三人 勝手次第在所へ遣ハシ、三人一所ニ召置キ、
朝夕膳部一汁二菜、三莱ニ過キス、
召仕ノ者三人ニ足軽鉢ノ者両人付置クヘキ旨、
御老中ヨリ仰セ渡サル、(7月)9日、江戸御差立
8月1日、右三人岡着
※岡藩が江戸城の普請工事など担当したときは、工事責任者の
山角権兵衛のような人に世話になったと思われます。
罪人だと敬称は付けませんが、遠島になった権兵衛のみならず、
子ども達も様を付けているのが微妙な意味を感じます。
親の罪が子どもにも及ぶ。子どもも流罪。
※この事に関係して、海音寺潮五郎・江戸城大奥列伝に
著述があるので紹介します。
「大工棟梁小沢筑後、材木方山角権兵衛の二人も、同様三宅島を
申渡された。 堀田の子二人は西崎隠岐守忠成へ、山角の子三人
は中川佐渡守久恒へ、それぞれお預けとなり、筑後の子一人は
追放となった」 2017年10月26日ブログ参照



