2018年07月

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幕府より岡藩が預かった人の書き出し届け  その4

元文三年(1738)戊午 久忠公 御年四十一歳

一、四月十一日、以前ヨリ御預り人ノ有無御書附差出サルヘク旨

御達ニ付、御書出          その3 

 ◯元禄2年(1689) 久恒公 49

④ 山角勝之助  同 金五郎  同 吉之允

 (幕府)小普請小頭 山角権兵衛様 遠島ニ付、

子息 勝之助様・金五郎様・吉之丞様三人御預ケ

右三人 勝手次第在所へ遣ハシ、三人一所ニ召置キ、

朝夕膳部一汁二菜、三莱ニ過キス、

召仕ノ者三人ニ足軽鉢ノ者両人付置クヘキ旨、

御老中ヨリ仰セ渡サル、(7月)9日、江戸御差立

8月1日、右三人岡着

※岡藩が江戸城の普請工事など担当したときは、工事責任者の

山角権兵衛のような人に世話になったと思われます。

罪人だと敬称は付けませんが、遠島になった権兵衛のみならず、

子ども達も様を付けているのが微妙な意味を感じます。

 親の罪が子どもにも及ぶ。子どもも流罪。

※この事に関係して、海音寺潮五郎・江戸城大奥列伝に

   著述があるので紹介します。

 「大工棟梁小沢筑後、材木方山角権兵衛の二人も、同様三宅島を

申渡された。 堀田の子二人は西崎隠岐守忠成へ、山角の子三人

は中川佐渡守久恒へ、それぞれお預けとなり、筑後の子一人は

追放となった」       20171026日ブログ参照

 

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幕府より岡藩が預かった人の書き出し届け  その3

元文三年(1738)戊午 久忠公 御年四十一歳

一、四月十一日、以前ヨリ御預り人ノ有無御書附差出サルヘク旨

御達ニ付、御書出          その3 

◯ 延宝9年(1681) 久恒公 41

③ 松平越後守殿家来  野本右近

 松平越後守光長様御家来 野本右近 御預ケ、

御評定所ニ於テ御渡シ、

依テ 中川覚左衛門重宗 小屋居間ヲ囲ヒ差置ル、

時服二・単物一・麻上下二具、御使者ヲ以遣ハサル、

二汁五菜ノ料理下サル、

羽織・袷等着用ノ為メトテ遣ハサル、

番人用聞ノ者且諸道具等悉ク附置ル、

同日右近儀、公儀へノ書附ノ儀御達コレアリ、

御当家御右筆小島三郎助御前ニテ誓紙仰セ付ラレ、

右近存通書附調へ、

翌朝 稲葉美濃守正則様へ御持参差出サル

※越後高田藩松平光長  松平忠直(一伯)の長男

※野本右近  祐筆部屋詰衆 千4百石

松平光長の世継ぎ問題に端を発した

越後騒動の首謀者の一人と思われます。

※岡藩の対応 家老屋敷の一部屋を囲い収容しています。

 いわゆる座敷牢ですが、久忠公が衣服や料理を

 届けさせるなど、扱いに相当に気を使っています。

       しかし、罪人なので取り調べをして、書類を老中に

       差し出しています。

※稲葉美濃守正則  老中 相模小田原藩第2代藩主。

2,017年9月28日ブログ参照

 

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幕府より岡藩が預かった人の書き出し届け  その2

元文三年(1738)戊午 久忠公 御年四十一歳

一、四月十一日、以前ヨリ御預り人ノ有無御書附差出サルヘク旨

御達ニ付、御書出           

 ◯ 明暦2年(1656)久清公42

② 尾張殿家来 塚本小市郎  

 尾州徳川光友卿五十人組ノ徒士衆 塚本小市郎 敵討致スニ付、

公儀ヨリ御預ケ

此節 兄弥五兵衛ハ大久保加賀守様へ御預ケ、

中兄 左助ハ切腹仰付ラル御評定所ニ於テ町御奉行ヨリ御渡シ、

9月2日、江戸出立、22日、岡着、

中川頼母資長居屋敷ノ下ニ新宅稠ク構へ差置ル

※敵(かたき)討ちなので、相手の行動も考え、万全を期して岡藩から

  物頭4人、侍6人、足軽60人、江戸まで迎えを差し向けたら、

  御老中酒井雅楽頭・松平伊豆守から人数が多すぎる、少人数で

  道中目立たぬようにと指示されています。

※中川頼母資長 岡藩家老 中川(熊田)頼母資長 2千7百40石

家老屋敷の下に新宅を・・。大事に扱われています。

2017年6月1日、921日、24日ブログ参照

 

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若殿久慶公 桜田門 防火警備 久忠公の名代御出馬

元文三年(1738)戊午 久忠公 御年四十一歳

一、正月二日、年始御礼、御献上・御拝領例ノ如シ

       竹千代様へ御献上右同

一、  三日、御献上例ノ如シ

一、二月朔日、御厄入ニ付、御祝儀御献上詳ナラス

一、 十七日、桜田組御防中御名代、若殿様御出馬ノ御願済セラル

一、三月二十三日、老職隠居中川睡也 伊織更名 相政病死

一、四月十一日、以前ヨリ御預り人ノ有無御書附差出サルヘク旨

御達ニ付、御書出

※竹千代様  8代将軍吉宗の孫、9代将軍になる家重の子

       10代将軍になる徳川家治

※中川睡也 伊織更名 相政  中川(古田)伊織相政 千5百石石

       中川(古田)主水重員の名跡を継ぐ

※(岡藩で)以前ヨリ御預り人ノ有無・・。

◯ 寛永19年(1642) 久盛公 49

① 小林彦五郎    

  小林彦五郎事、其方へ被成御預候、然者拾五人扶持被出之、

領内仁可被差置侯、恐々謹言  阿部対馬守重次花押

   ※三島代官所の8代代官に小林彦五郎

在任期間、寛永13年~19年とあります。(三島市資料)

三島代官任期終了と御年譜の記載年が一致しているのは、

代官の役を解かれて、すぐ、岡に流されたと思われます。

何か、役目上の落ち度があって、岡藩に預けられたのではないかと

思われます。

慶安4年(1651年)家綱が4代将軍宣下で赦免されています。

   ※それを受けて、老中より、彦五郎に江戸に来るよう指示があり、

    久盛公の御座船に乗って、三佐から出港しています。

※足利市法玄寺境内の小林家の墓地内に足利の代官であった

小林十郎左衛門尉・彦五郎父子の墓石があります。

前者には承応4年(1655)、後者には万治元年(1658)の年号が

刻まれています。(足利市資料)

2017312日、2017418日、19日のブログ参照

※預人のあと3名は、紙面の都合で次回。

 

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広島 浅野主殿重員を 婿養子に のち7代久慶公

元文二年(1737)丁巳 久忠公 御年四十歳

一、(閏11月)十八日、松平安芸守吉長様

御弟浅野主殿重員様 御養女直姫様へ、

    御聟養子ノ御願書差出サル 

直姫様養女御弘メカ明年十一月二十一日ナレトモ、

此度御願ハ左ノ通ナリ

   私儀、当年四拾壱歳罷成侯処、男子無御座、

殊近年 病身御座候故、養子仕度候得共、

同姓幷親類・遠類之内相応之者無御座候、

依之遠由緒茂御座候間、

   松平安芸守弟浅野主殿 当巳三拾歳罷成候、

去年在邑中茂心当養子相願候、

此者養子仕、在所ニ罷在候家来 同姓主馬と申者娘、

兼而養置候付、此者養女仕、主殿儀聟養子仕度奉願候、

以上

  元文二丁巳閏十一月十八日 中川内膳正 御印判 御花押

      松平左近将監殿

      松平伊豆守殿

      本多中務大輔殿

一、二十五日、浅野主殿様芝新橋御屋敷へ御入、直ニ御同道御登城、

       御養子御願ノ通仰セ蒙ラル

一、  同日、若殿様へ御実名久慶卜進セラル

一、十二月十一日、歳暮御献上例ノ如シ

一、   十五日、若殿様初テ御目見

一、   十九日、若殿様五節句月次御登城、御願済セラル

※松平安芸守吉長  浅野吉長 安芸広島藩の第5代藩主。

          血筋もよく英主、名君として有名です。

※浅野主殿重員   吉長(長男)の弟(4男)

※御養女直姫様   中川主馬久周(3代久清公の7男)の娘、諱は清。

久忠公の養女として、婿養子久慶公を迎える。

※若殿様初テ御目見 久慶公、将軍綱吉、大納言家重に初めて拝謁

※久忠公は41歳になるが男子がなく、病身なので養子を迎えたい・・。

 当時のことですから、家格、家柄、石高、藩の在所など考えると、

人選に相当苦労したと推察されます。

江戸留守居役の働きが試されるところでしょうか。

 

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